【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して③
三輪山のオオモノヌシの謎
狭義の出雲、つまり出雲地方の出雲族というのは割合わかりやすい。
しかし、出雲族はフロンティアスピリッツにあふれる民族なので、
出雲地方を離れて広範囲に活動している。
そこで問題になるのが、
という点です。
東京に進出した関西の笑い芸能人は、関西人といえるのか?ということです。
関東を活動拠点としていても、こてこての関西弁で関西のノリを貫けば
やはり関西人といえるのです。
関西人のアイデンティティを持ち続ければ関西人なのです。
同じように
故地を離れても部族としてのアイデンティティを守り続ければ出雲族です。
氏神という言葉や魏志倭人伝の記述、ユダヤ民族のシオニズム運動のを持ち出すまでもなく、
古代人の中心的なアイデンティティは宗教意識です。
故地の出雲族と同じ宗教意識をもっていたかが、重要なリトマス試験紙になる。
◇出雲族の宗教意識
<磐座・山体信仰>
出雲の荒神谷遺跡は、神名火山の遥拝の地であり、
加茂岩倉遺跡の近くには巨石、岩陰がある。
青銅器が大量に発見された遺跡は、
いずれも磐座・山体信仰との関連性が認められる。
古代出雲族は、原始宗教の磐座信仰をしていた可能性が高い。
磐座信仰は原始宗教として全国的に散見されるものだが、
出雲族の痕跡を示すメルクマールの1つだ。
<大国主命>
古事記・日本書紀が示す通り、出雲族の主神は、言うまでもなく大国主命。
神社に大国主命が祭られていれば、出雲族の拠点があったといえそうだ。
◇地名(人名)
宗教意識の他に、メルクマールになるのが地名(人名)です。
出雲に由来する地名があれば重要な証拠になる。
異文化・異国の中に放り込まれると郷愁に襲われるし、出身地を自分のアイデンティティとして強く意識してしまいます。
「三笠の山に出し月かも」(涙)
住んでいる人の名前に出雲地方の名前があればそれも重要。
例をあげると・・・
・世界遺産で有名な白川郷がありますが、かつて白川郷の一部の住民がダム建設のため立ち退きをさせられたことがあった。住民たちは、補償金をもって東京の渋谷円山町に移り住み、連れ込み宿(ラブホテル)の経営を始めました。ホテルの名前には、白川や川にちなむ名前が多いそうです。
・北海道の屯田兵も居住地に出身地の名前を付けていますよね。未開拓の地に出ていくときには、そこには地名がないのだから故地の名前をつけるのは自然な発想。
・スペイン南部のコリア・デル・リオには支倉常長の慶弔遣欧使節団の一員の子孫がいて、「ハポン」(スペイン語で日本)と名乗り、侍の末裔として有名なのだそうですよ。
エトセトラ、エトセトラ
つまり・・・
出雲族が住んでいたかは、
磐座進行 ・大国主命 ・地名(人名)
からある程度推測できます。
では、奈良の三輪山の謎について考えませう。
3つの観点から、三輪山麓に出雲族が住んでいたか検討すると・・・
①三輪山には、山頂に磐座があり、山体自体を祭っています。
→磐座信仰〇
ちなみに、
大和を中心に関西では石を恐れる文化が今でも残っています。
昔からある石(土地にめり込んでいる石)を触ったり、移動すると祟りがあるという類の信仰です。信仰の対象になっている石がある場合、道を建設するときでも道を迂回させることも多い。
社や石を避けて迂回している道があれば要チェック!!
地中に埋まっている石は、周辺の石やエネルギーを吸収してどんどん大きくなり、モノ(悪)またカミ(善)の神性を持ち始めるいう発想があるのです。君が代に「さざれ石(小さい石が大量にくっついた石)の巌(大岩)となりて」という一節がありますが、これも古代の石に対する信仰が下敷きになっています。
それから、中世には作庭する職業(石を取り除いたり、運んだりする)は寺社仏閣にかかわる人が携わっているのも興味深い。
「現状変更が加わること=穢れ」
という着想があり、現状変更ができるのは、人間と神との中間地点にいる者だけと考えられた。しかし、後には合理主義の進展に伴い、神聖な部分が希釈され、マイナスイメージだけが残ってしまう訳だが(差別の起源)…
②山麓にある大神神社の祭神は、大物主。
大物主は、大国主の「幸魂・希魂」、つまり分身。
→大国主〇
③三輪山麓の西と東に出雲という地区がある。
かつては興福寺領で出雲荘と呼ばれていた。
また、古墳時代にはこの地は大和政権の屯倉(直轄の田んぼ)で、
管理者が「意宇(おう)宿祢」という名前。
意宇は東部出雲の中心地の地名です。
ということで、地名・人名も〇
よって・・・
しかも・・・
大神神社の祭祀形態が、原始宗教に近く古墳時代よりも古い可能性がある。
(拝殿だけで山自体をご神体とする寺社はおそらく大神神社と宗像神社だけなので
神社では最古のものと考えられる。)
そうすると・・・
大和政権の成立以前から、出雲族が大和盆地に住み着いていたことになり、
大和政権が三輪を出雲族から奪ったという推論が成り立ちます。
記紀の神武東遷(天孫族が大和に進出して土着の部族を支配下に組み込むプロセス)
とリンクしそうです。
次回は、考古学的事実に古事記・日本書紀の記述を重ね合わせると見えてくる
古代出雲族の姿について書いてみたいと思います。
参考文献
・村井康彦「出雲と大和」(岩波新書)
・森浩一「京都を足元からさぐる(洛北)」(学生社)
【追記】
蛇信仰・龍蛇信仰と出雲族
ある日、小学生のオイラは友人の家の庭先で蛇の子供を追い回して遊んでいた。
木でつついたり、投げたりと本当に小学生は残酷だ。その様子を目撃した友人の母親が鬼神の如き形相でオイラと友人を怒鳴りつけ、ポカリと一発小突かれた。普段はおやつを出してくれる優しい方なのだ。小突かれたことよりも、人間がここまで豹変する事実に驚愕したのだった。カエルをいじめても怒らないのになんで蛇はいけないのか、当時のオイラには分からなかったが、これが蛇信仰によるものと分かったのは随分後のことである。
以下、吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」をベースに蛇信仰を紹介します。
蛇は、生命力・異形・男性器との類似性・猛毒・移動能力(水上を泳ぐ姿は感動的だ)等の特性から、縄文時代より信仰の対象とされてきた。今でもいろんなところに残っていて、しめ縄は「蛇の交尾」をモチーフにしているし、鏡餅は、「とぐろを巻いた蛇」がモチーフ(かがみの「かが」は、蛇の意味。ヤマカガシっていう蛇いるよね。)
とりわけ、出雲族と蛇の係りは深い。蛇巫という女官が蛇と交わり、蛇の子を出産し、それを信仰の対象とする蛇信仰があるのだが(もちろんそんなことは不可能だから、蛇に見立てた円錐形の山で神おろしをし、巫女の体に宿ってもらうなど他の形に仮託しますよ。葵祭もこれ。また今昔物語集にも蛇と女との交接の話が多く登場している。)、記紀では大三輪山のオオモノヌシは蛇とされており、オオモノヌシと人間の女が交わることで神性の強い子供を授かるという話がある。また、出雲の神社では海岸に漂着したセグロウミヘビをご神体として祀る風習がある。
余談ですが、インドにも蛇信仰があり、ナーガとナーギィという下半身が蛇の男女一対神がいます。これが中国に伝わり女媧と伏羲になり、さらに日本ではイザナギ・イザナミ・蛇を意味する古語「かか」・ウナギの語源になったとの説がある。
(女媧と伏羲 蛇の交尾(しめ縄)を思わせる。手にはコンパスと定規を持っている。これを使って建国(国生み)をした。wikipediaより)