京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑦

 

◇山背出雲氏の出自

 

京都の出雲路に住んでいた出雲族はどこからやってきたのでしょうか?

 

難題ですが、手掛かりはあります。

 

 

【山代郷の正倉】

 

ここで山背国から出雲国に目を転じてみます。

 

出雲国の中心地は、大和に近い意宇(おう)郡である。

 

出雲国国府つまり、今でいう県庁や合同庁舎が

 

意宇郡の大草郷にありました。

 

そして、正倉は国府に近い「山代郷」にありました。

 

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古代人にとって穀物はお金に等しいので、正倉とは官営金庫です。

 

注目したいのが「山代」という地名です。京都の昔の名称です。

 

つまり、出雲国の中枢に「山代(京都)」という地名があったということです。

 

丹波の氷上】

 

続いて、丹波に目をむけると

 

京都と出雲国府を結ぶ古代山陰道沿いに、

 

氷上という町がある。

 

ここには「賀茂郷」「葛野郷」(和名抄)という山背の地名に関連する土地がある。

 

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現在の地図を見ても、

 

賀茂葛野川貴船神社

 

京都にゆかりの深い地名・神社が散見される。

 

ここで記紀に描かれている氷上を見てみよう。

 

大和朝廷は、瀬戸内海を支配下に置き、

 

次のターゲットを出雲にしていた。

 

しかし、出雲振根は出雲の独立を望んでいた。

 

そこで、大和朝廷は、親ヤマト派の振根の弟

 

出雲族の持つ神宝(祭器)を譲るよう持ち掛けた。

 

弟は兄が留守の時(九州の宗像に行っていたと思われる)、

 

神宝を渡してしまうのである。

 

それを知った振根は、激怒し弟を殺害する。

 

祭器は、政治を行う上で必要不可欠なもの。

 

祭器の譲渡は服属を意味するから、振根が激怒するのも当然。

 

大和朝廷は、内紛にかこつけて四道将軍の1人キビツヒコ(桃太郎)を派遣し、

 

振根を誅殺して出雲を支配下に入れるが、大和と出雲の関係は悪化する。

 

そんな折、仲介役になったのが、

 

氷上に住んでいたシャーマン・水上戸部である。

 

つまり、

 

氷上は山背との結び付きがあり

 

氷上は大和と出雲の橋渡しをしていたようだ。

 

【出雲大神宮】

 

古代山陰道の沿線にもう一つ、出雲とゆかりの深い神社がある。

 

徒然草にも登場する亀岡の「出雲大神宮」だ。

 

この神社には磐座信仰・山体信仰があるので、

 

出雲族の神社であることに間違いない。

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 (出雲大神宮(元出雲)・ご神体の御蔭山が見える。wikipediaより)

 

以上をまとめると・・・

 

出雲の中心地に山背の地名があり、山背には出雲族の大規模な植民地がある。

 

そして、山背と出雲を結ぶ古代山陰道沿いに山背・出雲の地名が点在する。

 

つまり、

 

出雲の意宇に住んでいた出雲族が、山陰道を通って山背にやってきたということです。

 

さらにいえば、

 

大和の三輪山にある正倉の管理人は、意宇宿禰でした。

 

出雲の意宇出身の出雲族は、

 

山背からさらに南の大和の中心地まで

 

進出していた可能性があるのです。

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◇山背出雲族の役割

 

山背出雲氏は、大和と出雲の中間地に住み、

 

出雲国の正倉、三輪山麓の正倉の管理にかかわっていた可能性がある。

 

おそらく、

 

振根の弟や氷上戸部のように親ヤマト派として

 

出雲と大和の橋渡し的な活動していたのではないでしょうか。

 

一族の誇りか 一族の存続か?

 

出雲本家とヤマトの間で、

 

難しい立ち位置にいたのかもしれない。

 

次回は、山背出雲氏が勢力拡大し、

 

山背が、出雲族最大の植民地にまで成長する過程を見てみましょう。

 

 

 ※参考文献

森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北)」(学生社)