【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑩(完)
◇山城賀茂氏は天津族!?
山背の開拓者・出雲氏は衰退していく中、
勢力拡大の要因の1つが、
平安京遷都の際に王城守護の地位を手に入れたことだろう。
他には伊勢神宮にしかいない斎宮(皇女が神に仕える宮)もおかれる。
ほとんど天皇家の神社としての扱いを受けるのだ
もちろん社領も与えられ経済面も盤石だ。
「令義解」では、
・伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造斎神は、天神(あまつかみ)
・大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神は、地神(くにつかみ)
と記されている。
つまり、
「山城の賀茂族は天津族」とされているのだ。
天津族だから天皇家に優遇されるのは当然とも考えられる。
しかし・・・
その証拠がいくつかある。
【証拠1】
「上賀茂は神山」を「下鴨は御蔭山」をそれぞれの信仰の対象としている。
賀茂氏の信仰の本質は、山体・磐座信仰である。
先に述べたが、山体・磐座信仰は出雲族の特徴の1つだ。
(賀茂川より「神山」を望む。古代人は柔らかな山容を好んだようだ。)
(高野川から御蔭山を望む。分かりにくいが中央の小高い山。しばしば、下鴨神社は上賀茂神社から分離されたと説明されるが、異なる神奈備山を頂いている事実をどう説明すればよいだろうか。はじめから別々の神社だったといえないか。)
【証拠2】
山城賀茂氏の祖は、葛城鴨氏としており、
葛城鴨氏はヒトコトヌシ(オオクニヌシの息子)を祀っている。
【証拠3】
下鴨神社の本殿の前の「言社」という不思議な摂社がある。
本社の拝殿前に摂社が7つ並ぶのは珍しい光景だ。
下鴨神社が編集している「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」という
本をパラパラ読んでみたが、
言霊信仰からみたいな趣旨の説明があるものの
はっきりとした由来は分からずじまいだった。
本当に「すべて」が書かれているのだろうか。
言社は7つの小社で構成されており、祭神はすべてオオクニヌシなのである。
オオクニヌシには少なくとも7つの名前がある。
多くの名前がある理由は、
出雲が勢力を拡大する中で土着の神様を統合していった結果と考えられている。
名前の多さは、神力のバロメーターの1つ。
7つの社はそれぞれの名前に対応している。
拝殿前に出雲の主神をご丁寧に七柱も祭る念の入れ様。
言社という名前も、オオクニヌシの息子のヒトコトヌシを思わせる。
(本殿前の言社案内。「えと詣」となっているので、祭神が縁結びで有名な色男の大国主であることを知っている人は少ないだろう。縁結びの願掛けは相生社より言社がいいのでは??ちなみに相生社の祭神は、宇宙を生みだした滅茶苦茶エライ神様です。God of God。拝むときは粗相のないように(笑))
【証拠4】
下鴨神社の社伝も、出雲氏と賀茂氏は同祖であることを認めているところだ。
以上のことから
賀茂氏は、もともとは出雲族であったといって間違いないだろう。
では・・・
そこには平安遷都の際の桓武天皇の心理状態が影響していると思われる。
無実の罪で殺された多くの屍の上に築かれた政権なのです。
即位後、身近の人々が1年に1人位のペースでバタバタと死に、
水害等の天変地異が次から次へと起き、東北では蝦夷の反乱が勃発。
桓武天皇は、思い当たる節があったのでしょう、
政敵の怨霊の仕業だと思い、長岡京から逃げ出すのだった。
遷都の速度は尋常ではなく、決定から遷都まで3週間!!
桓武天皇の恐怖心は相当なもので、ほとんどノイローゼ状態だ。
「次に呪われるのは朕やもしれぬ。やばい。やばい。」
と急いでいるのである。
遷都の際に重要なのが王城守護の祭神の決定である。
都の鬼門を封じる祭神を決めなければならない。
しかし、その頃、鬼門にあったのは出雲寺・鴨社などいずれも出雲族ゆかりの寺社。
天津族たる天皇家の王城守護を国津神に任せるのはどうにも具合がわるい。
さりとて出雲族の神を移動させて天津族の神をまつり直すと
地祇神の怒りを買いさらなる災いが起こるかもしれない。
苦肉の策として賀茂氏を天津族に組み込み、
上賀茂・下鴨神社を天皇家の守護としての地位を与えたと考えられる。
※村井康彦「出雲と大和」、「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」参照
令義解では、
「山城の鴨は天神(あまつかみ)、葛木の鴨を地神(くにつかみ)」
と記載されている。
同じ鴨氏がなぜ天神と地神に分かれるか?
と疑問に感じるが、このように考えれば合点がいく。
(下鴨神社HPより。言社の位置に注目。中門正面・祭神に準じる配置)
山城賀茂氏は出雲族なので、本来はオオクニヌシを祭神とすべきところだが、
王城守護としての立場上、オオクニヌシを祭祀の中心にもってくることはできない。
「拝殿前」という言社の配置は、その辺の心理をよく表しており、
絶妙なバランス感覚だと密かに想像して楽しんでいる。
同じ出雲族ではありながら、
・天孫族と出雲族の二面性をうまく使い分けながら天皇家から支援を受けた賀茂氏は
現在にいたるまで繁栄を享受するのであ
桓武天皇の代で、天武系の皇統から天智系の皇統へとシフトするのだが、
両氏に明暗が生じた深淵には、
天武系の皇統VS天智系の皇統の対立構造があったのではないかと想像する。
◇山背出雲氏の末裔
それでもプライドをもって生きた者もいた。
京で流行していた謡に「雲太、和二、京三」というのがある。
大きな建物ベスト3を口ずさむものだ。
おそらく、出雲氏の末裔が歌い始めたのだろう。故地出雲への憧憬と自負を感じる。
※「口遊」(源為憲著) 平安時代に貴族の子供のために書かれた教科書。「雲太・和二・京三」の記載が見られる。「九九」も掲載されている。当時は情報の伝達・蓄積・複製の方法が限られていた時代だったので「学問=暗記」。口ずさんで暗記したのだ。学者が読んでも難しい部分もあるという。恐るべし、平安時代の小学生。
また、「出雲郷」という地名は消えてしまったが、
「出雲路」という地名は1200年以上に渡って継承されている。
地名がうつろいやすいことは平成の大合併からも容易に想像がつく。
これだけ長い間地名が残るのは
そこに住む人々が地名に特別な強い思い入れがあったからに違いない。
「出雲へと続く道」
遠い異国で出雲を思い続ける出雲氏の末裔が、
大切に守り続けてきた地名ではないだろうか。
出雲氏の出雲井於神社は,
本殿の傍らで静かにたたずんでいる。
敗者の神様も消さずに残すのは日本文化のいいところです。
そんな出雲井於神社にも少ないながらも熱心に参拝する人がいる。
氏子だろうか。
山背出雲氏の末裔は今もいるのかもしれない。