京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑧

山背出雲氏の発展

 

山背国で出雲氏は300人を超える勢力にまで成長するのですが、

 

この勢力拡大の裏に何があったのでしょうか。

 

◇出雲臣を称する人々

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳」によれば・・・

 

雲上里の8人の戸主(家の代表)は、全員「出雲臣」で

雲下里の12人の戸主のうち10名が「出雲臣」である。

 

この「」という呼称は何かというと・・・

 

律令体制に組した地方の有力豪族に贈られる称号だ。

 

山背に住んでいた出雲族大和政権の支配体制の一角を占めていたことを意味する。

 

山背の出雲氏が「臣」の地位を獲得した背景には、

 

出雲氏が、壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)についたことが考えられる。

 

壬申の乱の際に「出雲狛」なる者が、大海人皇子方につき、

 

琵琶湖の西の三尾城を陥落させたことが知られている。

 

その功績により出雲狛は30年後に「臣」の地位を獲得している。

 

出雲狛の出自は明らかではないが、

 

出雲狛の出自は、山背国であったと考えるのが自然。

 

おそらく、

 

計帳の中の山背出雲氏の多くも大海人皇子につき「臣」の地位を手にしたのであろう。

 

出雲狛は、命を懸けて戦い30年越しで「臣」の地位を手に入れた。

 

「臣」の地位を手に入れるのは大変なことなのだ。

 

山背出雲氏の中には大和の平城京に下級官僚として出仕していた者もいたようである。

 

同志社大学 歴史資料館に面白い記事(「今出川校地と古代“出雲郷" 」)

 

があったので引用する。

 

 

雲下里計帳に出雲臣安麻呂という人物がみえる。彼は当時42才で、位階は大初位下長屋王妃である吉備内親王の従者として平城京に出仕していたことが記されている。1988年、奈良市平城京長屋王邸跡から彼の名が記された木簡が出土。「无位出雲臣安麻呂 年廿九」とある。さきの計帳より13年前の彼の消息を語る同時代史料である。この時期、彼はまだ無位だった。木簡は続いて「上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五」と記す。彼は一年のうち320日も勤務し、さらにそのうち185日は夜勤もこなしていた。一昔前の猛烈サラリーマンである。しかし大初位下の位を得るまで10年余りかかっている。下級官人の昇進の実態がうかがえる。

 

 

山背出雲氏出身の出雲臣安麻呂という下級官僚は、

 

10年間、ブラック企業の社員も顔負けの激務をこなして

 

ようやく最低ラインの位をてにしたのである。

 

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 ※平城京跡 山背からはるばる平城京まで出仕。下級官僚はつらいよ。wikipediaより

 

 

◇上出雲寺の大伽藍

 

このように涙なしでは語れない努力を重ねて

 

山背出雲氏は300人以上の規模の勢力を山背に築いたのだ。

 

出雲氏の発展の象徴が、「上出雲寺の大伽藍だ。

 

「山城名勝志」によれば、

 

上出雲寺には南大門と中門があり、

 

中門を取り囲んで回廊がめぐらされ、

 

2階建ての金堂には裳階がつき、

 

講堂、食堂、鐘楼、経堂、三重塔が2基あったという。

 

仏塔を1基しかつくらない寺院がある中、

 

出雲寺は2基の仏塔を擁する(薬師寺式伽藍)。

 

出雲氏の繁栄を偲ばせる。

 

耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んでようやく繁栄を手にした出雲氏

 

しかし、その繁栄は長くは続かなかった・・・

 

次回は、出雲氏の没落の歴史を追ってみたい。

 

※参考文献

森浩一「京都の歴史を足元からさぐる(洛北)」(学生社)

 

【追記】

 

出雲寺の遺品たち

 

◇上出雲寺・三重塔礎石

 

上御霊神社の近くに尾形光琳屋敷があった。

光琳の屋敷は荒れ果てて藪が茂り、薮内と呼ばれていた。

その藪の中に大きな石が残されていたそうだ。

ジモピーは、それを「夜泣き石」とよんでいた。

その後、烏丸通が薮内を通過するのにともない、

その石は売り払われてしまう。

その後、上出雲寺の三重塔の礎石ではないかということになり、

今は渉成園への建物(別館)の濡縁に利用されているという。

 

出雲路観音

 

かつて上御霊神社には観音堂があり、上出雲寺の遺品の観音が祭られていた。

その観音は後に念仏寺(現、出雲寺)に移されている。