京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑥

 

 京都の出雲族

 

奈良時代の住民台帳

 

京都にも出雲族がいたのでしょうか??

 

この問いの答えは、

 

正倉院に保管されている書物にありました。

 

ナイス!!正倉院!!

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳という

 

税金を徴収するための住民台帳です。

 

726年の京都の出雲郷にいた住人、

 

つまり、出雲族の名前が記録されてい

 

そこには300人以上出雲族の名前が記されている。

 

これほど多くの出雲族が住んだ記録はなく、

 

山背が出雲族大規模な植民地だったことが分かります。

 

◇京都の出雲族の居住地

 

では、京都のどのあたりに住んでいたのでしょうか??

 

台帳には、雲上里雲下里に分かれていることから、

 

拠点が2箇所に分かれていたことが分かる。

 

そして、江戸時代中期の「山城名勝誌」によれば、

 

出雲寺という出雲族の氏寺があり、

 

上出雲寺と「下出雲寺に分かれていたという。

 

雲上里と雲下里のそれぞれの氏寺であったと思われる。

 

さらに、「相国寺の北西に出雲寺がある」と書かれている。

 

上御霊神社から出雲寺のものとみられる瓦が出土し、

 

また周辺から製鉄の痕跡集落跡が発見されていことから

 

上出雲寺は今の上御霊神社付近にあったと思われる。

 

上御霊神社付近の発掘の成果

www.sankei.com

上京区 史蹟と文化 古代出雲郷の発掘調査】

http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000083/83714/No.30.pdf

 

 

そして、上御霊神社の東の賀茂川沿いに「出雲路」があり、

 

上御霊神社の北にある大谷大学付近からも集落跡が見つかっている。

 

森浩一氏は、

 

下出雲寺と雲下里は、雲上里より南にあり、

 

出雲路幸神社」が雲上里と雲下里の境界にあたっていたのではないかと推測する。

 

(角川の地名辞典によれば、賀茂川を挟んで西を雲上里、東を雲下里としていますが、いわゆる「鴨川付け替え説」を前提にしているので旗色が悪そうだ。平安京の北限は一条通りである。京都の地形上、もう少し北に北限を設定することができたが、一条通りを北限としたのは一条通りが遷都以前から東西を結ぶ主要道として存在していたからとされる(平凡社京都市の地名」参照)。個人的には、一条通りが出雲族の集落を南北に分断し、通りの北を雲上里、南を雲下里として棲み分けをしていたのではないかと想像する。)

 

出雲路幸神社」は道祖神で、

 

道祖神は交通の要衝や村の境界におかれることが多いからだ。

 

古来、災いは道を通じて入ってくると信じられていたため、

 

悪霊が入ってくることを「さえ」ぎるために、

 

集落の境界に石を置いて「塞(さえ)の神」をとして祀った。

 

古事記

 

イザナギが死の世界からゾンビに追われて逃げ帰るときに

 

大岩で道を遮って追っ手からのがれる場面が描かれている。

 

大岩が現世と黄泉の国を分断するのですが、これも塞の神と同じ発想です。

 

出雲路幸神社」の「幸(さい)」は、もともとは「塞」であっただろう。

 

しかし、縁起のいい漢字にあて直したのだ。

 

「祝(ほまれ)山」や「祝野(ほうその)」という地名があるが、

 

もとは「屠(ほふり)」つまり、「死体をすてる」を意味していたが、

 

縁起がわるいので「祝」という文字を当てたりします。それと同じです。

 

塞の神」は、町の境界・道の分岐点におかれることから、

 

旅の安全を祈願する「道祖神信仰」(道案内のサルタヒコ信仰)と融合し、

 

サルタヒコアメノウズメの男女一対の祭祀形態を経て、

 

性愛的な要素が加わります。

 

ちなみに「出雲路幸神社」の「石神」は「・・・」の形です。

 

話がそれました・・・話をもとに戻します。

 

山州名跡志」には、

 

下出雲寺は、下御霊神社にあったとする。

 

昔の下御霊神社は「京極の東、一条の北」にあったとするので、

 

雲下里は、現在の京極小学校付近を拠点としていたのだろう。

 

以上の話をまとめると、

 

「雲上里」は、大谷大学から同志社大学までの加茂川右岸に広がり

 

「雲下里」は、同志社大学の南・京極小学校付近にあったと思われる。

 

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 (中古京師内外地図 相国寺・現同志社大学の北に「上出雲寺」の表記が見える。)

 

しかし・・・

 

出雲族の居住地は、もう少し広範囲に住んでいた可能性がある。

 

というのは・・・

 

下鴨神社の摂社には「出雲井於神社」があり、

 

さらに、

 

下鴨神社の東側を流れる高野川を渡ってやや上流にさかのぼると

 

出雲高野神社」があるからだ。

 

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 ※京都一怖いと噂される?崇道神社・敷地内に出雲高野神社がある。写真右の社が出雲高野神社です。小さっ!!崇道神社だけでなくこちらにも注目してほしい。

 

出雲井於神社はの祭神は、スサノオ出雲族の始祖である。

 

また、出雲高野神社の祭神は不明であるものの、

 

出雲高野神社の近くに「伊多太(いたた)神社という出雲系の神社がある。

 

祭神は、伊多太大神という記紀にでてこない謎の神様。

 

上高野で独自に生まれた神様であり、

 

上高野付近で最古の神社といわれるのも頷ける。

 

「いたた」は出雲系神社の神事・「湯立て」神事、

 

または「たたら製鉄」にも通ずるとのことだ。

 

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 ※伊多太神社。こちらも崇道神社の境内にある。

 

上高野周辺にも出雲族が進出していた可能性がたかい。

 

そうすると・・・

 

古代山背では、

 

鴨川の西岸一体・下鴨一体・高野川にそって上高野付近まで

 

と非常に広範囲に渡って出雲族勢力が及んでいた可能性がある。

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

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出雲族が住んだ場所は、いずれも水辺に近い。

 

洪水などのリスクをとっても、水辺に住んだ理由は何だろうか? 

 

単純に考えると

 

出雲族が進出した頃、

 

 

稲作技術をもたない縄文人が北白川などの微高地に住んでいて、

 

川沿いにしか住む場所が無かったうえ、稲作技術をもつ出雲族にとっても都合が良かったのだろう。

 

それに加え宗教的意味もあったかもしれない。

 

出雲族と水」には切っても切れない何かがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→蛇→龍神→水」妄想が膨みます。

 

 

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※松ヶ崎橋より。高野川水系沿いに出雲族の痕跡が残る

 

また、偶然だろうか、

 

出雲族の神社は、御霊会にかかわっている。

(崇道神社(出雲高野神社の本社)・上御霊神社下御霊神社)

 

出雲族と御霊・怨霊」にも何か繋がりがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→崇神→怨霊」これまた妄想が膨らむ。

 

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 ※崇道神社境内・森の中の長い参道奥に崇道天皇(早良親王)の怨霊が鎮座する。

 

今後の宿題です。

 

出雲族が居住を始めた時期

 

いつごろ出雲族は京都に進出したのでしょう?

 

ヒントになるのが、「出雲井於神社」と「山城国風土記逸文」だ。

 

山城国風土記逸文」によれば・・・

 

賀茂氏の始祖、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)は、

 

大和の葛城から山城の下鴨の地にやって来た。

 

娘のタマヨリヒメは下鴨の川から流れてきた矢を拾い、それがきっかけで

 

賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト以下「ワケイカヅチ」)を身ごもった。

 

としています。

 

これは・・

 

大和葛城に住んでいた賀茂氏の先祖が、京都の下鴨に移動してきたことを意味します。

 

おそらく、いい農地を探して移動してきたのでしょう。

 

治水・灌漑技術の乏しい古代において、日照りが続くと作物がダメになってしました。

 

古代人は、天からの恵みの雨をひたすら待つしかなく、

 

雷は、雨の前兆としてありがたい存在でした。

 

賀茂族の神は「賀茂別雷命」ですが、

 

」を祀る賀茂氏は、農耕部族と考えられます。

 

北野神社のある北野は賀茂氏の領地になりますが、

 

北野神社の菅原道真は「雷神」です。北野神社ではをお祭りしていますが、

 

これは雨ごいの際の生贄の儀式に由来します。

 

※藤沢駒次郎「京のくらしと出来事」参照

 

農民にとって一番大切な牛をささげることで雨の恵みを願ったのです

(野蛮な習俗ということで朝廷によって度々禁止令がでました)。

 

賀茂氏と農業」のつながりを感じさせます。

 

殺牛農耕祭祀

 豊作を祈願して牛を殺す文化は、渡来系種族がもたらしたといわれる。

 殺牛祭祀の風習を持つ渡来人と葛城鴨氏との関連性を指摘されている。

 (平林章仁「謎の古代豪族 葛城氏」参照)

 

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

 

 

 

 

また、玉依姫の妊娠の話は、

 

下鴨付近に住んでいた「土着勢力賀茂氏との結合」を意味している思われます。

 

土着勢力はおそらく、出雲族です。

 

川辺にいる娘を妊娠させる犯人は、出雲族の神様と相場が決まっています。

 

出雲井於神社は、別名「柊社」といい、開き神=開拓神を意味しています。

※「京都市の地名」(平凡社)参照

 

また、

 

延喜式神名帳」には、

 

本社の下鴨神社より前に出雲井於神社が記載されていますが、

 

摂社が本社よりも前にに記載される例はほぼありません。

 

このことは、

 

出雲井於神社が下鴨神社ができる前から出雲族によって祀られていて

 

その後、賀茂氏が土着の出雲氏と血縁関係を結び下鴨神社を祀ったといえる。

 ※林屋氏の説を参照

京都 (岩波新書)

京都 (岩波新書)

 

 

※一方、門脇氏は、賀茂氏の北上説に疑問を呈している。

 

京の鴨川と橋―その歴史と生活

京の鴨川と橋―その歴史と生活

 

 

そして、

 

賀茂氏葵祭は544年に始められたという記録がある。

 

そうすると・・・

 

出雲族は、544年よりも前から山城で活動していることになる。

 

また・・・

 

出雲高野神社のある高野では、

 

はじめ出雲族が居住していたが、

 

後から近江から小野氏(小野妹子で有名な一族)が進出してくる。

 

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小野毛人墓誌(崇道神社蔵、国宝)高野出雲神社のすぐそばの崇道神社から小野妹子の孫・小野毛人の墓標が見つかり、国宝に指定されています。

 

小野氏が勢力を拡大するのはC・7C

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

出雲氏はどんなに遅くとも6C・7Cには山背で活動していたのだ。

 

そして・・・

 

出雲井於神社は、井戸を祀る神様(もとは水源を祀っていたと思われる)

 

このような祭祀形態は珍しく、原始宗教としての性格が強いこと

 

下鴨からは弥生の集落跡が見つかっていることなどから

 

出雲族弥生時代ごろには山背に住みついていた可能性がある。

 

出雲族は、賀茂氏・小野氏が京都に進出するずっと前から山背に住んでいた。

 

山背の国の開拓者といえるでしょう

 

今回は、京都の出雲族の活動範囲と住み始めた時期を探ってみました。

 

次回は、京都の一大勢力出雲族

 

どこから来たのか?

 

そして、

 

どのように発展していったのか?

 

を追ってみたい。

 

※参考文献

・「京都市の地名」(平凡社

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

 

 

・森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北・山科)」(学生社)

 

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻