【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて②
相国寺大塔に関する資料をまとめると(てきとーな現代語訳)…
【大日本史料】
・1392年11月1日 相国寺大塔の基礎を定めたよ
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【相国考記】
・1393年6月24日 柱をたてたよ
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【大日本資料】
・1399年9月15日 大塔ついに完成。
・義満、1000名の僧侶をひきつれて完成式典を主催
・塔上から花をまいたり、舞を奉納したりと盛大な式典を行う。
※たぶん、義満は、どや顔だったと思う
【翰林葫蘆集】
・著者は、相国寺の僧侶・景徐周麟
・塔の高さは109m
【南方紀伝】
・著者不詳
・塔の高さは109m
【翰林五鳳集】
・著者は、相国寺で当時一番えらかった僧侶・瑞渓周鳳
・塔にのぼった周鳳さんは感動のあまり一句読む。
塔上晩望
七級浮図洛北東 登臨縹渺歩晴空
相輪一半斜陽影 人語鈴声湧晩風
↓ 現代語訳
「塔は京都の北東に立っている。塔に上ると蒼天を歩いてるようだ。夕日をあびた
塔の先端がはるか下に影を落としている。地上の人の声や鈴の音が風に乗って湧き上がってくる」
※臨場感たっぷりの句ですね。 えらい人しか登れなかったのでしょうか?
鈴の音とは塔の軒先につるしていた風鐸の音でしょうか。
(「並びたつ大塔」奈良市埋蔵物調査センター編より)
(京都タワーからの眺望)
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【大日本史料】
・1403年6月3日 雷が落ち、焼失
※そりゃー落ちるよね。
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【大日本史料】
・1404年4月3日 義満、懲りずに金閣寺付近に七重の塔を建てる儀式を行う
※また焼けそうな予感が・・・
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【看聞御記】
・1416年1月9日 午後8時ごろ3度落雷・焼失。
※やっぱり・・・
・塔が炎上する少し前、日が暮れた後、塔の上を僧侶と女官がうろついていたと目撃談あり。天狗の仕業だろう。
※月齢計算すると新月に近い。暗闇に何かが動いたら妖の類と思ってしまうでしょうね。天狗の仕業と考えたのは、天狗が仏法に背く妖怪でまた飛ぶことのできたからでしょう。
【康冨記】
・義持が、相国寺内に塔の再建を指示。
※ここまでくると執念を感じます。
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【経覚私要鈔】
・1470年10月3日 夜10頃、塔の5重目に落雷・焼失。
【相国寺前住籍】
・火は明け方まで消えず、多くの野次馬が見物
【応仁記】
・櫓番衆(警備員)が、焼失まえに猿のようなものが塔に火をつけるのを見た。
※この時も月齢が新月に近い。当日は真っ暗闇だったはずです。
暗闇で100mもある塔が燃える光景は、恐ろしくも美しかったでしょう。
(上野消防署ホームページより「谷中五重塔炎上」)
当時の人々がどのような気持ちでこの大塔を仰ぎ見ていたのか、それを直接示す資料はありませんが、早島氏は著書の「室町幕府論」の中でいかのように書かれています。
・昼間の大塔は、義満の権威を象徴するものであった。しかし、夜になると、大塔は暗転して見えにくくなる。そのかわりに、京の人々は大塔の上に、天狗や妖をみて恐怖していた。・・・巨大建造物は、昼と夜、それぞれ異なる意味で当時の人々を威圧していたのである。
・(一連の)怪異譚以上に異様に思えるのは、応仁の乱の勃発で相国寺のほとんどが焼けてしまったにもかかわらず、この大塔だけがぽつんと焼け残っていた事実である。あたりが一面が焼け野原のなか、大塔だけが残されているという光景。その姿は、戦争で灰燼に帰した花の都の荒廃感を一層際立たせたにちがいない」
大塔は御所を見下ろし、室町幕府の権威を示すシンボルだあったが、皮肉なことに衰退のシンボルともなった。
(出雲大社・戦艦大和・スカイツリーと同様、実用性を度外視した日本人の高さ・大きさに対する信仰のようなものを感じます。)
なぜ、幕府がここまで大塔にこだわたのか、莫大な費用はどのように賄ったのかは、前述の「室町幕府論」に詳しい。室町時代のイメージが変わります。
次回以降は、この大塔がどこにあったのか。痕跡は残っていないか。を書いてみたいと思います。