【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑨
消えゆく山背出雲氏
◇出雲郷からの逃亡者
山背国愛宕郡出雲郷計帳によれば、
かなりの数の女性が出雲郷から逃亡した記録が残っている。
なぜ逃げる必要があったのだろうか??
原因の1つに洪水被害(付随する疫病)があったのではないかと想像する。
土地が突然下がる洪水常習ポイントで、
治水技術が未熟な古代から近世にかけて
洪水に悩まされてきた。
秀吉がつくつた堤防(御土居)もこの辺りは二重にして強化しているくらいだ。
他には、
より労働条件のいい土地への移動(三世一身法など口分田制度が崩壊する中でどの豪族も
労働力を求めただろう)、賀茂氏・秦氏の勢力拡大、重税化などが考えられる。
いずれも想像の域は出ないが、
730年頃には既に山背出雲族の勢力に陰りが見え始めていたのだ。
◇ナマズ汁と破戒僧
「宇治拾遺物語」にナマズに転生した父親をたべた上出雲寺の別当の話がでている。
話の粗筋はこうだ。
平安の末期、上出雲寺は古くなっており、ろくに修理もしていなかったため、御堂も傾いていた。
ある日のこと出雲寺の別当(住職)浄覚は、夢枕で死んだ父親から次の話を聞いた。
「明後日、大風が吹いてこの寺は倒れてしまうだろう。その時、ナマズに転生した私は寺の瓦から這い出てもがき苦しむ。そこでお願いだ。ナマズになった私を鴨川にはなしてはくれまいか。そうしたらのんびりと琵琶湖で余生がくらせる。」
これを聞いて浄覚は目を覚まし、事の次第を妻に告げた。
その後、夢のお告げ通り、大風が吹き寺が崩れ、瓦の下からナマズがでてきてもがき苦しんでいた。浄覚は1メートルもあるマルマルとした魚に喜び、鉄棒でナマズの頭を一突きにした。それでもナマズは苦しむので子供に鎌をもってこさせ、エラを掻き切って家に持ち帰った。
妻はなんで殺してしまったのと抗議したが、浄覚は「こんな立派なナマズは放っておいたら他人に取られて喰われてしまう。どうせ喰われるなら、息子や孫に喰われるのが親父様も本望だろう」と取り合わず、妻にナマズ汁を作らせ、「さすがに親父様の肉だ。そこらへんの鯰とは違う。うまい。うまい」と夢中になって食べていたのである。
しかし、夢中のあまり喉にナマズの骨を詰まらせて嗚咽の果てに死んでしまうのであった。(浄覚の父親も妻帯。ナマズに転生したのも、その報いか? )
※琵琶湖の (~゜・_・゜~)
琵琶湖には3種類の鯰がいる、そのうち
・イワトコナマズは美味で蒲焼は、ステーキ・トロ並みのおいしさなのだそうだ。
・一方、1mを超えるビワコオオナマズは、油が多くめちゃくちゃまずいらしい。
市場に出してもキロ20円でも売れなかったようだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/25/3/25_211/_pdf
・私たちも外来種のナマズを日ごろ食べています。のり弁の白身魚とかです。
・浄覚が食べたのは大きさからしてビワコオオナマズ。
「さすがに親父様の肉はうまい」といったのは、
ビワコオオナマズは不味いという認識があったからでしょうか。
(ビワコオオナマズ。ブラックバスをも捕食する外来種スイパー。wikipediaより)
この話から分かることは、
平安末期、出雲寺は荒廃していたということだ。
今昔物語にもそのような事が書かれているので間違いないだろう。
そして、出雲寺の住職は妻子持ちで肉食までする破戒僧として描かれているのである。
大宝律令下では、僧侶は、肉食、妻帯、金銭を得るための説法が厳しく禁止されていた。
この説話からは、戒律を守らない俗法師に対する蔑みが伝わってくる。
経済的困窮のあまり俗法師になった出雲氏に対する軽侮から生じた説話だろう。
※俗法師については、喜田貞吉 俗法師考参照
しかし、出雲寺の住職にはどうしようもない事情があったのかもしれない。
戸籍が示すように出雲郷の人口減少は氏子の減少を意味し氏寺の経済力の低下を招く。
お寺を維持するためには、金銭の目的の説法、労働力の確保のために妻帯も必要だったろうし、鴨川の川魚は貴重な食糧だったろう。
戒律うんぬんは言ってられない。
◇御霊神社と唱聞師
出雲寺には境内にあった御霊堂(遷都の際に大和から移されたそうである)
の役割が拡大する中で
やがて寺の性格を失い、御霊神社となっていく。
御霊神社は、天皇にあだなす亡霊を鎮める役割を担ったのである。
御霊神社祀られている怨霊のラインナップを見ていると不思議なことに気付く。
怨霊のビックネームの中になぜか吉備真備が混じっている。
彼は非業の死をとげたわけではないのに、
この答えが古地図(中昔京師地圖)にある。
上御霊神社の横に唱聞師村という唱聞師が集住する村がある。
※応仁の乱の頃の古地図。上御霊で戦(上御霊合戦)が勃発すののだが、西に川が流れ、南に相国寺の堀があるため、東方面で戦闘が開始され、唱聞師村は焼き払われる。唱聞師池という大きな池がある。洪水によって形成されたのだろうか?江戸時代の古地図にはすでになく場所は不明だが、京都市の洪水ハザードマップから旧京都産業大学付属高校の北東だったのではないかと想定する。その後、今出川の流路変更に伴い水抜きが可能になって消滅したのではないか?
ここで話がつながった。
つまり、
御霊神社の脇に住まう唱聞師たちが御霊会にかかわり、
彼らが祖の吉備真備を祭りあげたと考えられる。
※柳田国男は「唱聞師の話」の中で唱聞師と御霊会との関連性を指摘している。
出雲郷の地域には、後に北畠唱聞師と桜町唱聞師の2派があった。
おそらくは、それぞれ上御霊神社と下御霊神社に対応していたと思われる。
※上杉本 洛中洛外図屏風 の中の唱聞師村。屋根に天道花(豊作を祈る行事)を掲げる。入口に鳥居、天道花の横に瓢箪。呪術者集団の一面を見せる。前を歩いているのは「大原女」。煮炊きに使う薪を京中に運んできた。人間が運べる量はたかが知れている。牛ががんばっています。牛がなんだかカワイイ。一束いくらで売ったのだろうか?いっても5000円くらい?大原・京都は往復30km。過酷な仕事です。狂言にも「木六駄」という演目に薪を運ぶ牛が出てくる。
この唱聞師たちは陰陽師の一派ではあるが、安倍清明のようなエリート官僚ではない。
寺社に仕え租税も納めなくてもよいのだが、
それだけでは食べていけないので市井にでて生活費を稼がなくてはならない
唱聞師の性格は次第に呪術的なものから芸能・エンタメ的なものに変化していく。
おもしろくない呪術よりも芸能の方が庶民受けが良かったのだろう。
※唱聞師の芸能は、猿楽・能の原型といわれる。
(上杉本 洛中洛外図屏風 左義長の様子。道行く人の目をくぎ付けに。唱聞師によるものか?)
その反面、唱聞師の社会的地位の低下することとなる。
また、出雲阿国は歌舞伎の祖といわれるが、唱聞師の1つのアルキ巫女だった。
一説には出雲路幸神社のアルキ巫女であったとされる。
中世は律令制が崩壊し、神聖なものが俗なものに変質していく時代だが、
山背出雲郷の衰退は時代の縮図のようだ。
以上のことから、次の事が言えるのではないか。
東寺・西寺に比肩する規模の出雲寺を建立するほどの勢力を誇った出雲氏だったが、
平安末期には出雲寺は朽ち果て経済的困窮を極めた。
中には課税から逃れるために俗法師となる者も出たと思われる。
出雲氏の評判が失墜していたことは説話からもうかがえる。
出雲寺はやがて御霊神社に変わる。出雲族は氏寺を失ってしまうのである。
唱聞師が御霊会にかかわっていくのだが、中には出雲氏も含まれていたであろう。
やがて唱聞師は呪術集団から芸能集団へと性格を変え、エンタメ業に活路を見出す。
氏寺の消滅により求心力を失った出雲氏は歴史の表舞台から姿を消していくのである。