京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して②

 

考古学から見る出雲族 

出雲族とは

 

出雲族は、どんな一族だったのでしょうか??

 

この問いに対する答えは・・・

 

分からない!!

 

というのが一番誠実な回答でしょう。

 

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 (行雲のような「出雲族」)

 

古代出雲族についての情報は、古事記日本書紀等の伝説や少ない考古学的資料等に限らるので断定的な説明が困難です。

逆に説明困難だからこそ「出雲」は魅力的です。

見えそうで見えないもの、チラリズムってやつでしょうか。

妄想し放題。言ったもの勝ちの世界です。

 

 ただ、「わからない」では身も蓋もないので,

神話や考古学的成果などを重ねあわせて、ぼんやりと見えてくる姿をまとめてみます。

 

◇考古学からみる出雲

 

考古学的成果を以下列挙すると

 

(+_+)眠たす・・・

 

・出雲地方では、縄文晩期に稲作が開始される(板屋Ⅲ遺跡)

弥生時代前期の遺跡から、朝鮮半島・北九州系の土器が発見される。

弥生時代中期・後期の遺跡の荒神谷・賀茂岩倉遺跡から、大量の青銅器が発掘される。(日本で発見された銅剣の約半数が荒神谷遺跡に集中)

荒神谷・賀茂岩倉遺跡から発見された青銅器の同氾の青銅器が、

 京都・奈良・和歌山・岡山・兵庫・徳島・福井・岐阜から発見される。

・九州北部で多く出土する広形銅矛や近畿・東海で多く出土する銅鐸は出土ていない。

・弥生後期、四隅突出型墳丘墓が出現。

 この型の古墳は、丹後を除く、山陰、北陸の日本海側だけに作られる。

・大型のものは、出雲西部の西谷古墳群と出雲東部の塩津山古墳

・西谷墳丘群3号(わが国屈指の規模)からは、吉備・北陸産の土器が出土。

・弥生後期になると時期を追うごとに山陰系土器が山陽側に広がり、

 後期には広島・岡山南部を除く地域まで到達する。

・弥生後期以降の出雲の鉄器は大陸産の鉄器と共通点があり、

 出土量は瀬戸内・近畿地方を凌駕する。

倭国の大乱のころ(2世紀半ば~後半)全国的に高地性集落が作られるが、

 出雲では倭国の大乱が終息する弥生時代後期末に高地性集落が形成される。

・弥生末~古墳時代初頭を境に拠点集落が急速に姿を消す。

古墳時代になると四隅突出型墳丘墓はつくられなくなっていく。

古墳時代前期は、斐伊川中流(出雲西部)と安来市荒島周辺(出雲東部)の二か所で多くの     前方後「方」墳が作られる。前方「後円」墳はわずか。

・その後、前方後円墳が多く作られはじめられるが、出雲東部では前方後方墳も継続し て作られる。

 その過程で全国一の規模の前方後円墳が出雲西部と東部に1基ずつ作られる。

・東部出雲が出雲国の盟主となる。

 

   ↓  多少?行間を埋めつつまとめると

 

 

 出雲地方は、北九州・朝鮮半島から稲作などの最新技術や青銅器など大陸の物資を取り込むことができた。この地理的優位性を生かし勢力を拡大し、日本海を媒介として山陰から北陸・北九州に及ぶ広域な連合体を形成する。日本海の海運ネットワーク(日本海文化圏)から派生した連合と思われる。

 四隅突出型墳丘墓という独自の埋葬形態、銅剣珍重山体・磐座信仰などの特色がある。出雲東部と西部の2大勢力があり、同じ宗教的意識でつながる横の連合体であった。

 さらに陸路から山陽方面にも進出し、弥生時代後期には岡山・広島の北部にも影響力を及ぼすまでになる。交易圏を含めると四国、近畿、東海まで射程に収める。

出雲連合の一番輝いていた時期であった。倭国を統一するだけのポテンシャルを持っていたのである。勢力拡大の背景に製鉄技術に長けた渡来人が出雲に入植してきたことが想定される。

 その後、倭の大乱の暗黒時代に突入する。北九州・近畿・山陽・東海地域に乱立していた勢力のパワーバランスが崩れ、中規模勢力にまとまっていく時期である。初期は出雲地方は比較的平和が保たれていたが、大乱の後期(3世紀中ごろ)になると時間差で出雲地方にも戦火が及ぶ。

 倭の大乱後の3世紀中ごろ近畿勢力である大和政権纏向遺跡付近に誕生する。大和政権にとって九州北部→瀬戸内→河内→奈良盆地という水運・通商ルートの確保が最重要課題であったため、4世紀はじめに山陽地方・九州北部を次々に支配下に置いていく。この結果、朝鮮半島南部から大量の鉄素材が大和政権にもたらされる。これは歴史の転換点として重要な出来事です。鉄製の農具の導入により従来耕作できなかった土地が耕作地となり人口(兵士)が増え、長期戦・遠征に耐えうるだけの余剰生産を備蓄できる。さらに殺傷力の高い武器を大量に生産できるようになった。大和政権は他を圧倒する経済力・軍事力を手に入れた瞬間なのです。瀬戸内海は大和政権の権力の源泉といえるでしょう(平安時代大宰府を「遠のみかど」/山陽道を「大路」としたことを想起)。ローマは、シーパワーのカルタゴを打つことで地中海の水運ネットワークを支配し急速に勢力を伸ばしていきますが、大和政権の瀬戸内海支配はそれを連想させます。

 大和政権が近畿・山陽・九州北部地方を統一すると出雲地方への進出をはじめる。技術力、鉄の所有量では大和政権には勝るとも劣らない出雲連合体だが、耕作面積に勝るつまりマンパワーに勝る大和政権にはかなわず4世紀中頃に出雲連合は大和政権の軍門に下る。この際も出雲は東部と西部の勢の分裂状態は続いていたが、やがて地理的に大和政権と近い東部出雲が出雲の盟主となり、出雲国として律令制に組み込まれる

 しかし、近畿含むその他の地域では作られなくなった前方後方墳を時代に逆らって作り続けていることから、精神的には出雲の独自性・自立性を意識していたようである。

フリーザに仕える誇り高き戦闘民族ベジータのように。

 

以上が考古学的な視点からの出雲だ。

 

しかし、これで終わらないのが出雲の面白いところです。

 

ここまでの話は、あくまで狭義の出雲、つまり裏日本の出雲族の話。

 

考古学的な資料からはまだ明らかになっていないのですが、記紀や神社を調べてみると、どうやら同じ宗教意識・同族意識を持った出雲族が早い時期に近畿にも進出した痕跡が見つかるのです。

 

一番の謎が、「三輪山大国主」の存在です。

 

大和朝廷揺籃の地のすぐそば、三輪山出雲族の主神大国主が祭られている謎です。

三輪山は秀麗な山で万葉集にもしばしば登場し、大和人の精神的支柱といってもいい山です。大和朝廷の首都にある秀麗な山に遠くは離れた属国の神さまが祭られているというのは理解しがたい事実です。富士山にイエスを祭っているようなものです。

 

この謎には、いまのところ考古学は答えてくれません。

 

次回は、三輪山出雲族の謎を考えたいと思います。

 

※参考文献

・勝部昭「出雲風国土記と古代遺跡」(山川出版)

武光誠「古代史を知る辞典」(東京堂出版)

 

【追記】

◇出雲の語源

 

出雲の語源はいろいろ説があるが、

司馬遼太郎は、イズモの「ツモ」は、一族を意味するとしている。

積もる→集まりというイメージでしょうか。

そうすると、「イという一族」という意味です。

古語は一音節・二音節のものが多いのでおもしろい説です。

そうすると・・・

安曇・大伴・穂積・鰐積・津積もこの理屈で説明できます。

 

京都の太秦(ウズマサ)の地名の由来もこれで説明できるかも。

秦氏は、ウズモ・ウツモ氏と呼ばれていて、

秦氏の根拠地の「太秦」は、「ウズモの長(オサ)」ということで、

「うずまさ」と呼ばせるのかも(妄想)。

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を求めて①

出雲族の気配

 

鴨川デルタ

 

賀茂川と高野川の合流点は、

鴨川デルタ(正確には三角州ではないですよ。)と呼ばれ、

大学生サークルの宴会のメッカです。

 

私が大学生のころも、

 

・外で飲むときは、「鴨川デルタ」、

・店で飲む時は「三条土下座像前

 

に集合というのが定番でした。

 

大学生以外でも、

 

・「ふたばの豆餅」を食べる観光客、

・土手で滑って遊ぶ幼稚園の集団、

・コーヒー片手に読書するおじーさん、

・うっとり顔で自作の曲を歌うおにーさん、

・なぞの楽器を半狂乱で乱打するヒッピー風味の人

・砂金採りに興ずる自称山師

・トビにパンをキャッチさせて遊ぶおじさん、

・裸族

・土手をぺたぺたあるくカモの親子に、

・害獣指定にされていることも知らずのんきに泳ぐヌートリアの親子、

・上流から流されて途方にくれるオオサンショウウオ(おそらく台湾種)、

・なぞのショートケーキのオブジェ(毎月22日)と、

 

まだまだ紹介しきれないのですが、いつ行っても活気にあふれています。

 

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 (ゆく川の流れは絶えずして…人の声もまた絶えない鴨川デルタ)

 

鴨川デルタは、昔からにぎやかなところです。

 

2つの川が合流するだけでなく、

・近江路(白鳥越・山中越)

・若狭路、

丹波路(老ノ坂)

の起点になります。

 

かつて幸神社(道祖神)がこの付近にありましたが、

デルタが運送・交通の要衝であったことを示しています。

 

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また、糺河原(鴨川デルタ)は「無所有」「無縁地」(権利の空白地帯)で、

しかも、2つの河原が合体するため広々としています。

 

こういった事情から、古来、芸能興行や商業の場所としてにぎわい、

中でも糺河原勧進猿楽は有名で、能楽の普及に大きな役割を果たしています。

 

時には山法師や一揆など武装蜂起の集合場所になり、

東方勢力と京中勢力との防衛ラインにもなりました。

デルタの近くにある桝形商店街は、

城壁の形状である桝形虎口に由来するそうです(諸説あり)。

 

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(河原での興行の様子。鴨川はエンタメの聖地)

 

鴨川デルタは、ストリートミュージシャン・デモ参加者が集まる新宿アルタ前のようなところだったのです。

 ※ちなみに、今は条例で、河原で興行をすること、花火をすること、バーベキューをすることなどが禁止されています。休日明けの鴨川ではゴミが散乱しているのが目につくので致し方ないとは思いますが、世知辛い時代です。

 

糺の森下鴨神社

 

にぎやかな鴨川デルタを脇目に北に向かうと下鴨神社の参道入口があり、

参道は平安遷都以前からある原生林を抜けていきます。

古代山背の雰囲気を残しており、

 第六感を持ちあわせていない私でも、

いずまいを正して参詣しないとという気持ちになります。

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(古代山背の姿を残す数少ない場所。現在マンション建設で揺れている。)

 

日本文化の本質は「聖・俗」あるいは「聖・賤」の交錯にあると思うのですが、

デルタと糺の森はそれを思わせます。

 

 下鴨神社は社格が高く伊勢神宮に次ぐ地位にある。

京都市の神社では、上賀茂神社下鴨神社が最高位らしいです。

名実ともに京都で1番の神社でしょう。

 

私自身、下鴨神社が大好きで10年以上、定期的に神社に行っています。

ここ数年は下鴨神社の古本市に行って、

帰りに「さるやのかき氷」をたべるのがマイブーム。

 

最近では、パワースポット?として注目されているらしく

20代、30代の女性やカップルの姿が目立つようになりました。

縁結びの相生社・連理の木や

森見登美彦氏の小説・アニメ(「有頂天家族」「四畳半神話体系」)

の影響もあるのかもしれません。

 

以前は参拝客がほとんどいなかった河合神社にも参拝客が集まっています。

不思議に思って行ってみると・・・

河合神社が美人の神社としてフィーチャーされていました。

なぜ美人の神様なのか新しく設置された由来書をみても理解できませんでした。

 

どこかの経営コンサルタントの戦略ぽいです。

 

河合神社の名前は川の合流点からくるのですが、

そのうち、ご祭神玉依姫命がめちゃくちゃ可愛かったからと

由来書にかかれそうで少し怖いです。

 

河合神社や相生社は女性やカップルの信仰?を集めていますし、

朱塗りの門と本殿は記念撮影をする観光客でごった返しています。

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 (下鴨神社・楼門)

 

◇出雲井於神社(いずもいのうえ神社)

 

 本殿、相生社・河合神社と対照的に

出雲井於神社(比良木社)は参拝する人もまばらで

いつもひっそりとしています。

 

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 (本殿の左脇にある出雲井於神社。比良木の名前にも意味がありそう。)

 

私も最近まで、まったく気にも留めてませんでした。

下鴨神社の西側には、出雲路出雲路という地名があるのですが、

なぜ京都に出雲の地名があるのか疑問におもったのがきっかけで

出雲井於神社に注目するようになりました。

 

 

賀茂氏の神社の中になぜ出雲氏の神社があるのか?

 

・近くにある出雲路出雲路町との関係は?

 

今回はその辺の謎を調べてみたいと思います。

 

【上御霊神社と光琳・燕子花図屏風】

◇弯曲する上御霊前通

上御霊神社周辺の地図です。

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大きく弯曲する道(上御霊前通り)がありますね。

 

現地の写真がこちら ↓

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京都にはあまり見かけない道筋だと思います。

これは何かというと・・・今出川の痕跡です。

同志社大学の近くにある今出川通の名前の由来になりました。

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(都名所図会より 上御霊神社を囲む様に川が流れている。)

 

流路は時代によって変化しますが、平安時代には中川とよばれました。源氏物語にも登場する由緒正しき川なのです。

 

 ちなみに、この道(上御霊前通)だけ周辺の道よりも広くなっていますが、これはかつて馬場があったからです。上御霊馬場町として地名にも残っています。

上賀茂・下鴨神社のように馬に係る神事をしていたのでしょうか??

 

今回は、この今出川尾形光琳燕子花図屏風についてご紹介したいと思います。

 

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 (尾形光琳作・国宝「燕子花図屏風」)

 

◇上御霊の燕子花

御霊神社の周りを取り囲むように堀がめぐらされていますが、これがかつての今出川の痕跡です。戦前までは水が流れていました。

当時は天然の燕子花(カキツバタ)が群生し、珍しい四季咲きだったそうです。

しかし、川の暗渠化に伴い、水が絶えると燕子花も姿を消してしましました。

 

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(上御霊神社・南門付近)

 

尾形光琳住居跡

 

一方、上御霊神社から数十mの場所に尾形光琳の邸宅跡があります。尾形光琳は、ここで数年住んだのち、燕子花図屏風を完成させました。

 

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(尾形光琳・邸宅跡)

 

光琳上御霊神社の燕子花を楽しんだはずで、上御霊の燕子花が、少なからず燕子花図屏風の制作に影響を与えたといわれています。

燕子花図は、大田神社の燕子花をモチーフにしたという説もありますが、燕子花屏風の花の配置は水路に咲く燕子花を連想させるので、自宅の近所の上御霊の燕子花をモチーフにしたのではないかと思います。

 

今は燕子花は見ることはできませんが、初夏になると一初(イチハツ)の花をみることができますので、往時の今出川の姿を重ね合わせてはいかがでしょうか。

 

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 ※上御霊神社の一初(イチハツ)

 

なんの変哲もない水路に国宝誕生の秘密があるのかもしれません。

 

※参考資料

上御霊神社・社報「ごりょうさん・17号」

平凡社・「京都市の地名」

【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて④

前置きが長くなりましたが、相国寺大塔の場所をさがしませう。

 

①地名②古地図③洛中洛外図屏風④古文書⑤高低差からアプローチしてみます。

 

◇地名

前回、相国寺大塔の基壇が、一辺:30m、高さ:2m以上と推定しました。

非常に大規模な基壇だったので塔が焼失した後も長期間、基壇は残っていたようで、

地域の特徴を示す地名となりました。

その名は「塔之段町」!! そのまんま。

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上塔ノ段町付近が有力な候補地です。

(地名は偉大!!有史以前、縄文時代までさかのぼれる地名もあるかもね~)

 

◇古地図

続いては古地図からのアプローチです。

前出の中古京師内外図によれば、赤く囲った部分が相国寺大塔があったそうです。

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しかし、

縮尺が明らかに変なので、参考程度の資料です。

上塔之段町にあったことの裏付けにはなりそうです。

 

洛中洛外図屏風

洛中洛外図屏風(上杉本)は、相国寺七重大塔より眺めた景色を書きとったとの説があります(石田尚豊「洛中洛外図屏風についてーその鳥瞰的構成ー」)。

屏風の寺社仏閣の位置を実際の地図に落とし込むと一点(塔之段町付近)から放射状に配置されていることが分かり、屏風は相国寺七重大塔からの眺望であるとの仮説がなりたつそうです。

 

この説が正しかったとすると、塔から真西を見た風景が屏風の中心になります。

洛外図屏風の中心は、相国寺三門です。

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 つまり、三門を通過する東西のライン上に相国寺大塔があることになります。

下の図でいうと赤いライン上です。

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◇古文書

古文書からのアプローチ

相国寺塔供養記】

この資料は、相国寺七重大塔の落慶法要の様子を記述したもの。

その中に、「落慶法要の際の僧侶の控え室が、塔の東門の外、南北に斜めに伸びる道沿いにたてられた」という記述がある。

 

このことから、大塔が現在の寺町通り寄りにあったことが推測される。

 

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京都は原則として南北の碁盤の目状に道が配されています。寺町通りも今出川通りまでは南北に伸びています。しかし、今出川通り以北は鴨川の影響で北西に傾きはじめます。相国寺塔供養記の東門付近の道筋は、現在の寺町通り付近にあったものと推測されます。

【薩戒記】

「塔は、相国寺の敷地の外にあり、富小路通の東、毘沙門堂の南にある」

室町時代富小路は、現在の麩屋町・塔之段通りに相当し、毘沙門堂は現・毘沙門横町に相当する。なので、大塔推定地は次の図のようになる。

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◇高低差

基壇は大規模だったので、現在でも微高地として残っているはず!!

10tトラック×300台分以上の盛り土が簡単になくなるはずがない!!

そこで、上塔ノ段町付近をカシミールで5cmおきに高低差表示する。

しかし・・・

目立って高い場所はみつからなかった・・・

高低差を強調して表示するとやや他の場所よりも浮き上がって見える部分がある。

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この辺が怪しい??

しかも周辺は少し低くなっている。

周辺の土を使って基壇をつくったに違いない(妄想)。

 

    ↓ 結論としては・・・

 

 

総合的に以下の部分に大塔があったと無理やり結論づけました(泣)

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 以下が現地の写真。

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少し高低差があるが、やっぱりびみょー。

 

結局、相国寺大塔は幻のままでした。

 

東大寺・西塔跡には瓦の破片が散乱していますし、日本史上最大の仏塔だった相国寺大塔跡からも瓦片が出てくるはず!!真相は発掘調査までお預けです。

 

【追記】

 

もし、相国寺七重大塔が現存していたら…

 

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 出雲路橋から見たら、こんな感じかな。もう少し高いかも…

 

※七重塔についての新発見

これまで七重塔の存在は文献から知られていましたが、物証も新たに発見されました。


まぼろしの相国寺七重塔を復元する
金閣寺における九輪断片の発見によせて-

http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/336-2.pdf

 

【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて③

件の大塔はどこにあったのでしょうか??

 

そして、今でも痕跡は残っているのでしょうか???

 

場所をさぐる前に、七重塔の規模を推測してみませう。

 

 

◇中古京師内外図

 

中古京師内外図によれば、

109m×109mの敷地に七重塔が立っていたとのこと。

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しかし、この地図は室町時代の京都の地図を江戸時代に作成したものなので

信頼性にやや欠ける。

 

東大寺・東西塔

 

そこで、相国寺大塔に次ぐ規模の仏塔の発掘結果を参考にします。

 

相国寺大塔に次ぐ規模の仏塔といえば、東大寺七重塔(西塔・東塔)でしょう。

文献などから高さは70m以上あったそうで、東大寺に今でも基壇が残されています。

基壇の一辺の長さが約25m、高さが2m前後です。

 

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(東大寺・西塔基壇跡)

 

東大寺の基壇の大きさから

 

相国寺大塔は、少なく見積もっても

 

・基壇の一辺の長さ:30m以上

・基壇の高さ:2m以上

・回廊を含めた敷地の一辺の長さ:60m以上

 

あったのではないでしょうか。

 

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(東大寺七重塔・復元模型)

 

次回は、

大塔が立っていた場所について探っていきたいと思います。

 

【追記】

◇礎石について

大規模な建造物を建造する場合には、柱の土台として礎石が敷かれます。

そうしないと掘立柱になってしまい、せっかく立派な建物を建てても柱が根元から腐って長持ちしません。しかし、五重塔大極殿クラスの建造に使われる礎石になると巨大です。東大寺西塔基壇跡には、基石が抜き取られた跡が凹みとして残っています。凹みは埋まりやすいにも関わらず、700年以上たつのに凹みとして残っていることは驚きで、礎石の大きさを物語っています。重機がない当時、巨石を加工し、都まで運搬するのには多大な労力がかかるので、非常に高価なものとして扱われていたはずです。

(今の労働価値に換算すると恐ろしい額になりそう…)

東大寺西塔跡には、礎石の一部が残されています。あまりに大きいので楔で割って他の用途に流用されたようです。

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 (礎石の残骸、これでも大人二人は座れます。)

 

相国寺大塔の礎石も倒壊後に他の用途に流用されたはずです。高価な礎石を放っておくはずがありません。

室町幕府の次の権力者が流用していて、

今でも現役でがんばっているかもしれませんね。