【心霊スポット?】京都北山・愛欲の狐坂
京都の狐坂(きつね坂)は、
北山・松ヶ崎と岩倉・国際会館を結ぶ峠道で
京都屈指の心霊スポットとして名高い??そうです。
おいらは、時々夕方にマラソンで狐坂に行きますが、
いままで出会ったことがないのです。
高架が出来てからはそれほど薄暗さを感じられず、
もう心霊が出ることはないでしょう。
うむ…残念。
前からその名前の由来について気になっていたので
今回は、狐坂について書いてみます。
狐坂についての資料を探してみましたが、
なかなか見つからない。
ようやく見つけたのがこれ‼
↓
「新猿楽記」
さぞかしお固い読みものと思いきや
無邪気でエロくて舌鋒鋭い
のです。
物語中の男は、財産目的で
20歳年上の女を本妻にするのだが
男の妻に対する
悪口雑言の調べをご堪能ください♪
第一の本妻は、
齢すでに60にして紅顔ようやく衰えたり。
首の髪を見れば「はは」として、朝の霜のごとく
面のしわに向えば畳々(じょうじょう)として暮れの波のごとし
上下の歯は欠け落ちて飼い猿の顔のごとく、
左右の乳は垂れて夏牛のふぐりに似たり。
化粧を致すといえどもあへて愛する人もなく、
あたかも極寒の月夜のごとし。
媚び睦ぶることを為すといえどもさらに厭ふ者多く、
なお、盛夏の陽炎のごとし。
吾が身の老衰を知らずして、常に夫の心のなおざりなることを恨む。
故に
本尊の聖天は供すれども験なきがごとく、
事物の道祖は祭れども応少なきに似たり。
野干坂(きつねざか)の伊賀専(いがとうめ)が男祭には蛤苦本(女陰)を叩いて舞ひ、
稲荷山の阿古町が愛法には鰹破前(男根)をうせつて喜ぶ。
五条の道祖に「しとぎ」(もちごめ)餅を奉ること千葉手(ちひらて)、
東寺の夜叉に飯「きかて」を祀ること百「あじか」
千社を叩いて踊り、百幣をささげて走る。
嫉妬のまぶたは毒蛇の擾乱せるがごとし
憤怨の面は悪鬼の「がっさい」するに似たり。
恋慕の涙は面上の粉を洗い、
愁歎の炎は肝中の朱を焦がす
※参照
よくも、まーそこまで・・・
「蛤苦本」・「鰹破前」と、
臆することなく筆を走らせる様は
平安人の自由闊達な精神にあふれている。
訳は新猿楽記 - Wikipediaで確認していただくとして
要約すると
夫に「夜の営み」を拒否された老妻が、
性欲に身を焦がし、神仏の力で夫の愛情を得ようと
奮闘しているということです。たぶん。
愛欲の願掛けのなかに
「野干坂(きつねざか)の伊賀専が男祭には
蛤苦本(女陰)を叩いて舞ひ」
※専(とうめ):女狐または老女の意
とあるように京都北山の「狐坂」が登場している。
狐坂には
「伊賀の女狐」を祀る稲荷社があり、
稲荷社の男祭で
女が女陰を叩いて踊った
とのことだ。
※おそらく狐と稲荷の繋がりを示す最古の記述だろう。
もうすこし解釈すると
狐坂の周辺には、
豊穣・性愛の神として男根を崇拝する土着信仰があり、
それが稲荷信仰と結びついて、
稲荷の男祭が行われていた。
男祭りでは、
男神を楽しませる神楽として
年老いた女が自らの女陰を叩いて舞った
ということだろう。たぶん。
「沙石集」の「敬愛の祭」にもよく似た話がでてくる。
和泉式部は
夫の愛情を取り戻すべく、
貴舟神社で敬愛の祭りを執り行った。
祭りでは、
赤い御幣を並べ、
神社の年老いた巫女が下半身をさらけ出し
女陰をたたいて舞った。
性愛の仏教史: 愛欲と破戒の秘史を読む - 藤巻一保 - Google ブックス
とある。
現代の清く正しく美しい日本人からは信じられない話だが
古事記にも
アメノウズメのストリップ劇(神楽の起源)
が記載されている。
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
=アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。
古の日本人にとって、
「祭りと性愛」は密接な関係
があったのだろう。
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そこからは
ネアカでラテン民族のような日本人の原像
が浮かび上がる。
静かで上品な日本人は
明治維新後の学校・家庭教育のたまものなのだ。
いいかわるいかはわからないが、
外国に比べ自己肯定力の低い子供の量産、草食系男子・絶食男子ということからしても
もう少しイタリアンな情操教育が必要かもしれない。
(イタリアでは教科書でロレンツィオの言葉「青春はうるわしされど逃れゆく楽しみてあれ明日は定めなきゆえ」を教えるらしい。ななめ上を行っている。ちなみに自殺率は経済的停滞にも係らず日本の4分の1以下。低成長社会の先輩として見習うべきかも)
また
平安時代の性的な開放性の他に驚かされるのは、
愛欲の願掛け(いわゆる「愛敬法」)
の種類の豊富さだ。
・稲荷信仰・ダキニ天信仰
・道祖神信仰
・歓喜天(聖天)信仰
・密教の夜叉神信仰
※追記参照
平安貴族の女性たちは、
妻問婚で自らハンティングできないから
「愛されること」「美しくいること」は切実。
和歌のスキルを上げて男の心をつなぎとめるのにも限界がある。
そこで「スピリチュアル」
つまり愛欲の願掛けの需要が高まり、
その需要に呼応して
各宗教が様々な非公式の呪術を生み出し、
貴族の財力にすり寄っていった。
※これらの呪術は、通常の神仏には叶えられない願いを成就させる強力な効能があるとされたため、時の権力者が政敵に利用されることを恐れ「秘法中の秘法」・禁術(外法)とした(平家物語参照)。これらの術は、途中で祀ることをやめると祟るなど副作用も大きいとされた。呪術のリーサルウェポン(最終兵器)。これでダメなら諦めろという含みがあるのだ。また、術者は禁を犯し罪を問われるリスクを負うので、術の報酬が「天が蓋で地が器」と言われるほど大きかったという。とても庶民が手を出せる代物ではなかった。
貴族に現世利益を提供するサービス業だったのだ。
現代社会でいうところの美容健康サービス業。
美しくありたい、愛され続けたいという愛欲は、
今も昔も変わらない。
そろそろ本題の狐坂の由来に戻ろう。
手持ちの資料からはどうもはっきりしない・・・
原始的な男根崇拝の祭りが松ヶ崎に昔からあって、
男祭り→性愛→稲荷社建立→祭神:「伊賀の女狐」
ということで狐坂という地名が生まれたのかもしれない。
あるいは、
松ヶ崎の地理的理由からかもしれない。
まとめて5話の狐の話(第27巻の37~41)が収録されている。
だいたい以下のように筋が決まっている。
女狐が、
麗しい女性の姿になりすまし、
「お馬にのせてくださいまし」などと愛らしい仕草で
男をハニートラップにかけるのだが、
男に刀で脅され、
化けの皮がはがれ、
恐怖のあまり酷くくさい尿をもらしながら
※キツネは縄張りをもち、マーキングする習性がある。
「こんこん」と泣いて山に逃げ帰る。
狐に人間を害する意図はなく、
好奇心から人間に近づいてくる。
※キツネは警戒心が強いが好奇心も強い。
男は、「殺しとけばよかった」と建前上は狐への憎悪をみせるのだが、
おそらく狐の愛くるしさに心奪われていて本気で殺す気はない。
※キツネの習性をとらえた記載になっており、身近に狐がいたことがうかがわれる。
このように
平安人は、
狐に対して
「憎しみと愛情」
の二律背反の感情を持っていた。
狐のもつ
女性のような優美さ・愛くるしさ、鼠を退治する益獣性と
荼枳尼天(だきにてん)の化神、陰獣・妖獣性の
二面性がそうさせたのだろう。
狐のもつ陰湿なイメージは、
留学した密教僧が中国から日本に持ち帰り
呪術と共に「最先端の知識」として貴族に広めたのである。
今でいえば、
・ハーバード大学に留学していた秀才が日本に帰ってきて
「これがワールド・スタンダードだ‼」などと学んできた知識をひけらかす
・聴いてる方は、聴いてる方で良くわからないもんだから、
「なーんか違和感あるけど、ハーバード大学だから凄いのだろう」
とありがたがる
といったところか。
日本古来の狐に対する素朴な感情と舶来の最新知識の間で
平安貴族のこころは揺れたのだろう。
もともとはインドの女神(ダーキニー)。シヴァに仕える最下層カーストの娼婦がモデルとされ、娼婦たちは行者を快楽に導く特殊技術(セックステクニック)を持っていたという。インドから中国に伝わり、日本へは密教の鬼神(荼枳尼天)として伝来。男女の性行為を修行に位置づける左道密教においては、荼枳尼天は酒を飲み死んだ人間の肉(人黄)を喰らい交接(セックス)をすることで大楽(トランス状態)を得るエログロな女神とされる(なお、日本には空海が持ち帰った「理趣経」は左道密教系統に属する経典)。墳墓を荒し死肉を喰らう点でジャッカル(野干=日本では狐)とイメージが重なる。当初、荼枳尼天は真言宗・東寺系の僧によって信仰されていたが、伏見稲荷が東寺の勢力下に入る過程で(伏見稲荷の氏子が伏見区から東寺のある南区・下京区まで広く分布しているのはその名残)、稲荷社と荼枳尼天の習合(仏教と神道の理論的摺り合わせ)がおこる。もともとは農耕信仰だった稲荷・狐信仰の性格は、荼枳尼天の影響を受け、愛敬法・性愛・呪術等の性格を帯びることとなる。荼枳尼天の霊験は、その異神性ゆえに強力とされ、天皇の即位の際に行う儀式(東寺即位法)に導入されるなど時の権力者の守護呪術とされた。反面、呪法を政敵に利用されることを恐れ、権力者以外の利用を禁じ、外法(禁術)と位置付けた。その後、稲荷と狐は商売の神様となり全国的に普及し、陰湿・外法的なイメージは薄まるが、それでも狐には、狐火・狐憑きなどの暗いイメージが残ってしまう。
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※荼枳尼天の伝来については、巻末解説「狐の話」を参照
※陰獣・妖獣性(化ける狐)・稲荷と狐の関係が簡潔に説明されている
そして、
物語中、狐と遭遇するのが
・夕暮れ時の人里はなれた場所
・都の中でも樹木がある場所
(怪奇譚でおなじみの「宴の松原」)
・夕暮れ時の平安京の路地
・夜だが月明りのある場所
である。
これらの場所・時間に共通するのが、
「薄暗い」ことである。
※真っ暗ではないというのがポイント。
平安人は、
夜行性の狐と
夕暮れ時あるいは
薄暗い場所で遭遇し、
「何だろう?」という猜疑心と
追はぎ・山賊あるいは鬼に対する恐怖心、
インド・中国から伝わった陰獣・妖獣のイメージが相まって、
怪異としての狐を見たのだろう。
今昔物語集も、
狐は、相手(人間)の心の持ちようでさまざまに行動するらしい
と総括している。
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松ヶ崎の狐坂も、
日陰になる部分が多く薄暗い。
この地形的理由から狐坂の名が付き、
その後、
狐→稲荷→性愛・巫女→狐坂の男祭り
と発展したのかもしれない。
まだまだ調査不足なので、
結論は今後の宿題としたい。
いずれにしても
狐坂には、
平安時代、狐のお社(稲荷社)があり、
非公式に愛欲成就を祈祷する場所だった。
今となっては
狐から愛欲祈願のイメージは失われたが、
密教の妖獣としての狐のイメージは
1200年以上経てもまだまだ健在で、
狐坂が心霊スポットとされることに一役かっている。
密教が日本人の心象風景に与えた影響は根深い。
※松ヶ崎の昔話(京都新聞|ふるさと昔語り)
・松ヶ崎に伝わる「人助けをする狐火」の昔話があるが、この昔話は平安時代までは遡らないだろう。
※妙円寺の古井戸の昔話
松ヶ崎の妙円寺には古井戸があるが、狐にまつわる言い伝えが残る。
「キツネの子がこの井戸にはまって死んだ。すると稲荷の親キツネが現れ『今後一切井戸を掘ってはならぬ。掘れば不幸が訪れる。その代わりどんな日照りでも神通力で涸らさぬようにする』と告げたと伝える。以来水道ができるまで,東部の17軒はこの井戸一つで過ごしてきたという。この石標は東松ヶ崎の人々が生活用水として使った古井戸の跡を示すものである。 」(京都市HPより抜粋)松ヶ崎には狐にまつわる言い伝え・昔話が多い。山の南側には松ヶ崎一帯を縄張りとする狐が住んでいたようだ。
※都名所図会(江戸時代のるるぶ)
・木が多い茂っている坂だから「木摺(きづれ)坂」「木列(きつれ)坂」という名が付きその後「狐坂」に変化したと記されてる。ただ、平安時代の新猿楽記にはすでに「野干坂」(野干=狐)と呼ばれている点、平安・鎌倉時代の古地図には「狐坂」と記載されており、江戸時代の古地図には「キツレ坂」と記載されている点が気になる。稲荷社も無くなり、漢字が読めない庶民に地名が伝承(耳コピ)されるうちに、「狐坂」という漢字の意味から離れて、発音しやすいキツレ坂に変化したのではないかと個人的には思う。
平安時代頃の古地図(花洛往古図)・「狐坂」の記載がある
江戸時代の古地図(名所手引京圖鑑綱目)・「キツレ坂」の記載がある。
※狐の社
・かつて京都には御土居という城壁があったが、その城壁に狐が巣穴を作って住んでいたらしい。そのうちに狐が信仰の対象となり、いまでも狐の社がいくつか残っている(石井神社、平一大明神、市五郎神社。「平一」「市五郎」は狐の名前だろう)。また、平家物語の「鹿谷」には、「賀茂の上の社にある聖をこめて、御宝殿の御うしろなる杉の洞(ほら)に壇をたてて、ダキニ天(キツネはその化神)の法を百日行わせらる」とあり、狐の巣穴を祭祀としたと思われる記載がある。昔は狐が身近にいたようだ。松ヶ崎に「伊賀の女狐」という狐が住んでいて、その巣穴を祀る狐の社(稲荷社)ができ、狐坂という名前になったというのが案外正解なのかもしれない。
※歓喜寺と涌泉寺
松ヶ崎にはかつて歓喜寺という天台宗の寺があったが(上記平安時代の地図参照)、寺の住職が夢で翁からお告げを聞いたことがきっかけで、寺と松ヶ崎村の檀家全員が日蓮宗に改宗する(現在では日蓮宗・涌泉寺となっている。松ケ崎の五山の送火が「妙」「法」なのは村が全体が日蓮宗だから。)夢の中の翁は白狐にまたがっていたという。ダキニ天は白狐にまたがった姿で描かれることが多いし、稲荷神は翁の姿で表現されることがある。住職が見た翁は間違いなく「稲荷神」。改宗に当たって村人を説得するために「稲荷神」を持ち出したのだろう。古くから松ヶ崎の人々が稲荷神を深く信仰していたことを伺わせるエピソードだ。
※左:白狐に跨るダキニ天 右:翁稲荷
【追記】
◆大田神社の里神楽(ちゃんぽん神楽)について
大田神社の里神楽は、老齢の巫女が神楽を舞う珍しい様式(年配の巫女が担当するということで旋舞なのにスロー)で神楽の原型とされる。
別名ちゃんぽん神楽。鈴の音(ちゃん)と太鼓の音(ぽん)がその理由。鈴の音は、空気とか目に見えないものを浄化します。いわばファブリーズ。逆に目に見えるものは水で浄化します(禊)。
古の日本では、魏志倭人伝の卑弥呼と弟のように宗教的権威は女性に世俗的権威は男性にありました(二重権力構造)。これは上賀茂神社の葵祭(斎王代)にもみられる。宗教的権威のある巫女は、高速旋舞(巫女舞)でくらくら(トランス状態)になって神おろしをし、神託を行った。だからトランス型の巫女舞が神楽の原始的形態とかんがえられている。トランス型の巫女舞は日本から消滅したが、ここの神楽にはその痕跡である巫女の旋舞(超スローだが)が残っているので、神楽の原型といわれている。
老齢の巫女とが舞う理由は、長寿を祈願するためとされるがもう少し深い理由があるように思う。野干坂の伊賀専の男祭・敬愛の祭から老齢の巫女と性愛には何らかの連関がありそうだ。また、大田神社の祭神はアメノウズメ。もともとは豊穣と性愛に係る神おろしの神事だったのかも。老齢の巫女と神楽の事例を収集していくと面白いことがみつかるかもしれない。
※神降ろしの後、鈴で参拝客に神力を送ります。
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◆東寺の夜叉神と性愛
東寺には今でも雄雌の夜叉像が残っている。夫婦の夜叉である。性神の摩多羅神と同一神とされ、三つある顔がそれぞれ、歓喜天・ダキニ天・弁財天という。一体の仏像に4つの性愛の神が同居している形になっている。すざまじい効力がありそうだ。ただ、祟り神としても認識されており、副作用も大きそう。
◆歓喜天(聖天)と性愛について
歓喜天は密教により日本に伝来しているが、我々にはなじみが薄い。それには理由があって、歓喜天は男女が絡みあった仏像であるため、公序良俗に反する恐れと左道密教への傾斜の危惧もあり、秘仏中の秘仏とされ非公開とされるからだ。もともとはインドの毘那夜迦(ビナヤカ・ガネーシャ・象頭の破壊神)という神様。荒ぶる神・毘那夜迦を観音菩薩が交接することで抑え込み、善神へと導いたという神話がもとになっている。刀身と鞘といったところか。実際、荒くれ男も妻子ができると急に丸くなるよね。愛されたり、守る対象ができると破壊される側の気持ちが分かるようになるものだ。また、「歓喜」は性的恍惚であり(「白宝口抄」参照)、性愛の神に位置づけられる。日本の歓喜天は二体の象が抱き合っている物が多いが、チベット密教など左道化した地域の歓喜天は露骨な性的表現となっている。このガネーシャは「万軍の主」としてエジプト(エレファンティーネ島)にも伝わり、そこに駐屯していたユダヤ人傭兵部隊はこれを「yaho」として信仰した。ユダヤ教の最高神・ヤハウェの原型である。しかし、出エジプト後、ユダヤ人はヤハウェの原型をすっかり忘れてしまい、このガネーシャをヤハウエとは別物の「ビヒモス」「バハムート」として聖書に登場させている(バーバラ・ウォーカー「神話伝承辞典」参照)。
※左:ガネーシャ・右:ビヒモス いずれも「万軍の主」と称される
◆道祖神と性愛について
新猿楽記の老女は、道祖神に願掛けを行っているが、
道祖神と性愛の関係は過去の記事参照