京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【巨大!!古代道路】京都山科に東山道/東海道を探す

信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ

(信州の千曲川の石も、あなたが踏んだものなら 宝石だと思って拾いましょう)

f:id:korot:20160430211554j:plain

 千曲川(千曲市観光協会HPより)

 

万葉集東歌の一首です。

 

・上毛野安蘇の真麻群かき抱けど飽かぬを何どか吾がせむ

高麗錦紐解き放けて寝るが上に何ど為ろとかもあやに愛しき 等

 

ストレートな愛情表現の多い東歌にあって

 

この歌は初々しい繊細な感情が漂う。

 

持ち物じゃなくて、踏んだ石っていうのが、また恥じらいがあっていい。

 

現代人の心にもスッと入ってくる万葉秀歌の1つ。

 

どのような状況で詠んだのかは定かではありませんが、

 

信州と都を結ぶ古代東山道上田市付近で千曲川を渡河しているので、

 

千曲川を渡り、東山道を通って都に旅立っていった男性(防人?)を偲んで

 

心を寄せていた乙女が詠んだのではないかと想像します。

 

秘する恋。いいですね~

 

かわいいな~ 千曲の乙女。

 

と・・妄想がすぎました・・・ 

 

千曲川を渡って都に向かう東山道保福寺峠を越えていきます。

 

私は数年前に保福寺峠を歩きました。

 

カラマツと新緑に包まれた峠からは、

 

純白の雪を頂いた北アルプスの名峰が聳え、

 

眼下にはみずみずしい安曇野が広がった。

 

そして、冷たい風が荒れた峠を吹き抜けていた。

 

東山道は、木曽・伊那谷を越え北アルプスのさらに西へと延びていました。

 

都・九州へ向う防人たちは、

 

眼前に立ちはだかる峻険な峰々を前に何を思ったか。

 

逆に、蝦夷討伐の兵士たちは、

 

木曽・伊那谷を越えて峠にたどりついた。

 

地のはて、陸奥(みちのく)への入口に立ち何を思ったか。

 

あの風景は今も忘れられない。

 

f:id:korot:20160504135701j:plain

※保福寺峠より北アルプス安曇野を望む(長野県観光協会HPより)

峠には「信濃路は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に足踏ましむな履(くつ)はけ我が夫(せ) 」の万葉句碑がある。信濃路の険しさを感じさせる。

 

 

今回は、古代の官道(東山道)に注目してみたい。 

 

 

奈良時代から平安時代にかけて朝廷の力が増すにしたがって、

 

都と地方を結ぶ道路も整備されていきました(駅伝制)。

 

東北・信州と都を結ぶ東山道もその1つです。

f:id:korot:20160430164820g:plain

 ※吉見町役場HPより

 

 

古道といって侮るなかれ。

 

その幅員は広いところで、40メートル

 

直線的に伸びるのが特徴。

 

    ずどーーーーん!!

f:id:korot:20160429181051j:plain

※五万堀古道・茨城に残る東山道痕跡茨城県教育財団2000年/総合流通センター整備事業地内埋蔵文化財調報告書)

 

畑に残る東山道ソイルマーク!!

 

      萌え~~!!

f:id:korot:20160430214156j:plain

 ※大東遺跡(大田市)

 

 

と・・・テンションが上がりすぎました・・・

 

現代の高速道路をイメージするといいようです。

 

ちなみに 

 

高速道路建設のために発掘調査をすると古代道路の遺構が出てくることが多いそうです。

奈良・平安時代の測量技術の高さ、道路計画の合理性がうかがえます。

 

古代道路はその大部分が失われましたが、大規模かつ直線とい特徴があったため

 

地図をよく観察するとその痕跡を見つけることができます。

参照:【古代道路探索の手引き】

http://www.kus.hokkyodai.ac.jp/users/his1/pdf/chiri.pdf

 

山科に古道・東山道(東海道)の痕跡を探してみませう。

 

【問い】

こちらの地図から東山道(東海道)の痕跡を探してください。><

f:id:korot:20160429110345j:plain

 ※東名自動車道・京都東付近の地図

 

 

 

お気づきになられただろうか・・・(心霊番組風)

 

 

 

 

【答え】

下の地図を見てください。

f:id:korot:20160429112913j:plain

 

 ブルーのマーカー部分が、旧東海道(近世)の道筋です。

一方、赤いマーカー部分が、滋賀県京都府の県境(府境?)です。

 

幹線道が県境になることが多いのですが

 

ここでは旧東海道と県境が微妙にズレています。

 

このことから古代の道路は、ブルーと赤のラインで挟まれた部分だったと推測される。

 

古代の道は近世東海道よりも広く、その道の端が境界線(県境)となったが、

その後、道が狭くなった結果、近世東海道と境界線が分離してしまったというわけだ。

 

古代道の幅員は、広いところで1町(約109m)と

 

地方の古代官道の痕跡と比べても規格外です。

 

 

なんとジャンボジェット機も離着陸できる広さ!!

 

世界最大のエアバスA380の緊急着陸

f:id:korot:20160501062758j:plain

 http://a380airbus.com/wp-content/gallery/a380/biggest-jet-airbus_a380_front-takeoff.jpg

 

 

幅員1町と巨大な道路になったのは、

条理制で1町ごとに区切られた田畑を道路に転用したからだ。

 

※参照:『日本霊異記』下卷第十六

「女人、濫シク嫁ぎて、子を乳に飢ゑしむるが故に、現報を得る縁」と題する説話に「大和の国鴉鳩の聖徳王の宮の前の路より、東を指して行く、其の路鏡の如く、広さ一町許、直きこと墨禅の如く、辺に木草立てり。」という道路の記述がある。http://hist-geo.jp/pdf/archive/120/124_001.pdf (P3下)

 

 

渤海使(乙姫さまの住む竜宮城からの使節…)

山科経由で京都にやってくることもあったので

見栄を張ったのかもしれない。

 

※参照:司馬遼太郎街道をゆく・湖西のみち」

 

f:id:korot:20160429114450j:plain

※県境は段差になっていて水路が流れる

 

 ※帯状の空き地(菜園)が古代道路痕。脇の水路が県境になっている。

https://goo.gl/maps/KpQSZhZTUNH2 (3D表示)

 

 ※難解な県境/府境(京都市/大津市)の標識 

 「近世東海道を基準とした県境と「古代東海道(東山道)」を基準とした県境がせめぎ合う場所では、このような難解な標識になってしまう.家の中を境界線が走っているところもあるそうだ。複雑な境界線は公共サービス上のトラブルの原因になりそうだが、隠れた歴史遺産でもあるのだ。

 

身近にあるなんでもない畑に古代道路の痕跡は残っていて、

 

それは、はるか信州・陸奥まで続いていた。

 

そこを多くの人生が通り過ぎたのだ。

 

 

古代道路は地図グーグルアースで探すことができるので

古代の旅ビトに思いをはせながら探してみてはいかがでせう??

 

※参考資料

完全踏査 古代の道―畿内・東海道・東山道・北陸道

完全踏査 古代の道―畿内・東海道・東山道・北陸道

 
日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書)

日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書)

 
改訂新版 万葉の旅 中 (全3巻) (平凡社ライブラリー)

改訂新版 万葉の旅 中 (全3巻) (平凡社ライブラリー)