京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【巨大!!古代道路】京都山科に東山道/東海道を探す

信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ

(信州の千曲川の石も、あなたが踏んだものなら 宝石だと思って拾いましょう)

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 千曲川(千曲市観光協会HPより)

 

万葉集東歌の一首です。

 

・上毛野安蘇の真麻群かき抱けど飽かぬを何どか吾がせむ

高麗錦紐解き放けて寝るが上に何ど為ろとかもあやに愛しき 等

 

ストレートな愛情表現の多い東歌にあって

 

この歌は初々しい繊細な感情が漂う。

 

持ち物じゃなくて、踏んだ石っていうのが、また恥じらいがあっていい。

 

現代人の心にもスッと入ってくる万葉秀歌の1つ。

 

どのような状況で詠んだのかは定かではありませんが、

 

信州と都を結ぶ古代東山道上田市付近で千曲川を渡河しているので、

 

千曲川を渡り、東山道を通って都に旅立っていった男性(防人?)を偲んで

 

心を寄せていた乙女が詠んだのではないかと想像します。

 

秘する恋。いいですね~

 

かわいいな~ 千曲の乙女。

 

と・・妄想がすぎました・・・ 

 

千曲川を渡って都に向かう東山道保福寺峠を越えていきます。

 

私は数年前に保福寺峠を歩きました。

 

カラマツと新緑に包まれた峠からは、

 

純白の雪を頂いた北アルプスの名峰が聳え、

 

眼下にはみずみずしい安曇野が広がった。

 

そして、冷たい風が荒れた峠を吹き抜けていた。

 

東山道は、木曽・伊那谷を越え北アルプスのさらに西へと延びていました。

 

都・九州へ向う防人たちは、

 

眼前に立ちはだかる峻険な峰々を前に何を思ったか。

 

逆に、蝦夷討伐の兵士たちは、

 

木曽・伊那谷を越えて峠にたどりついた。

 

地のはて、陸奥(みちのく)への入口に立ち何を思ったか。

 

あの風景は今も忘れられない。

 

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※保福寺峠より北アルプス安曇野を望む(長野県観光協会HPより)

峠には「信濃路は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に足踏ましむな履(くつ)はけ我が夫(せ) 」の万葉句碑がある。信濃路の険しさを感じさせる。

 

 

今回は、古代の官道(東山道)に注目してみたい。 

 

 

奈良時代から平安時代にかけて朝廷の力が増すにしたがって、

 

都と地方を結ぶ道路も整備されていきました(駅伝制)。

 

東北・信州と都を結ぶ東山道もその1つです。

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 ※吉見町役場HPより

 

 

古道といって侮るなかれ。

 

その幅員は広いところで、40メートル

 

直線的に伸びるのが特徴。

 

    ずどーーーーん!!

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※五万堀古道・茨城に残る東山道痕跡茨城県教育財団2000年/総合流通センター整備事業地内埋蔵文化財調報告書)

 

畑に残る東山道ソイルマーク!!

 

      萌え~~!!

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 ※大東遺跡(大田市)

 

 

と・・・テンションが上がりすぎました・・・

 

現代の高速道路をイメージするといいようです。

 

ちなみに 

 

高速道路建設のために発掘調査をすると古代道路の遺構が出てくることが多いそうです。

奈良・平安時代の測量技術の高さ、道路計画の合理性がうかがえます。

 

古代道路はその大部分が失われましたが、大規模かつ直線とい特徴があったため

 

地図をよく観察するとその痕跡を見つけることができます。

参照:【古代道路探索の手引き】

http://www.kus.hokkyodai.ac.jp/users/his1/pdf/chiri.pdf

 

山科に古道・東山道(東海道)の痕跡を探してみませう。

 

【問い】

こちらの地図から東山道(東海道)の痕跡を探してください。><

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 ※東名自動車道・京都東付近の地図

 

 

 

お気づきになられただろうか・・・(心霊番組風)

 

 

 

 

【答え】

下の地図を見てください。

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 ブルーのマーカー部分が、旧東海道(近世)の道筋です。

一方、赤いマーカー部分が、滋賀県京都府の県境(府境?)です。

 

幹線道が県境になることが多いのですが

 

ここでは旧東海道と県境が微妙にズレています。

 

このことから古代の道路は、ブルーと赤のラインで挟まれた部分だったと推測される。

 

古代の道は近世東海道よりも広く、その道の端が境界線(県境)となったが、

その後、道が狭くなった結果、近世東海道と境界線が分離してしまったというわけだ。

 

古代道の幅員は、広いところで1町(約109m)と

 

地方の古代官道の痕跡と比べても規格外です。

 

 

なんとジャンボジェット機も離着陸できる広さ!!

 

世界最大のエアバスA380の緊急着陸

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 http://a380airbus.com/wp-content/gallery/a380/biggest-jet-airbus_a380_front-takeoff.jpg

 

 

幅員1町と巨大な道路になったのは、

条理制で1町ごとに区切られた田畑を道路に転用したからだ。

 

※参照:『日本霊異記』下卷第十六

「女人、濫シク嫁ぎて、子を乳に飢ゑしむるが故に、現報を得る縁」と題する説話に「大和の国鴉鳩の聖徳王の宮の前の路より、東を指して行く、其の路鏡の如く、広さ一町許、直きこと墨禅の如く、辺に木草立てり。」という道路の記述がある。http://hist-geo.jp/pdf/archive/120/124_001.pdf (P3下)

 

 

渤海使(乙姫さまの住む竜宮城からの使節…)

山科経由で京都にやってくることもあったので

見栄を張ったのかもしれない。

 

※参照:司馬遼太郎街道をゆく・湖西のみち」

 

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※県境は段差になっていて水路が流れる

 

 ※帯状の空き地(菜園)が古代道路痕。脇の水路が県境になっている。

https://goo.gl/maps/KpQSZhZTUNH2 (3D表示)

 

 ※難解な県境/府境(京都市/大津市)の標識 

 「近世東海道を基準とした県境と「古代東海道(東山道)」を基準とした県境がせめぎ合う場所では、このような難解な標識になってしまう.家の中を境界線が走っているところもあるそうだ。複雑な境界線は公共サービス上のトラブルの原因になりそうだが、隠れた歴史遺産でもあるのだ。

 

身近にあるなんでもない畑に古代道路の痕跡は残っていて、

 

それは、はるか信州・陸奥まで続いていた。

 

そこを多くの人生が通り過ぎたのだ。

 

 

古代道路は地図グーグルアースで探すことができるので

古代の旅ビトに思いをはせながら探してみてはいかがでせう??

 

※参考資料

完全踏査 古代の道―畿内・東海道・東山道・北陸道

完全踏査 古代の道―畿内・東海道・東山道・北陸道

 
日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書)

日本の古代道路を探す―律令国家のアウトバーン (平凡社新書)

 
改訂新版 万葉の旅 中 (全3巻) (平凡社ライブラリー)

改訂新版 万葉の旅 中 (全3巻) (平凡社ライブラリー)

 
 

【異国の北野天満宮②】臥牛像の謎

◆臥牛像の謎

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wikipediaより

 

北野天満宮を訪れると多くの牛の像があり、

 

なぜ牛の像があるの??

 

と疑問に思われる人も多いのではないでせうか?

 

今回は、このなぞ解きをしたいと思います。

 

北野天満宮のHPを見てみると次のように書かれている。

 

 御祭神菅原道真公(菅公)と牛にまつわる伝説や逸話が数多く残され、菅公は承和12年(845)に誕生され、この年は乙丑(きのとうし)の年でありました。延喜3年大宰府でご生涯を閉じられた際、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から御遺骸を轜車(牛車)にてお運びする途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来しております

 

つまり、

 

・祭神の菅原道真公が丑年生まれ

・牛車の逸話

 

が由来だとしている。

 

しかし、

 

牛の像を祀るのにはもう少し深~い理由がある。

 

雷神信仰

 

北野の地は、平安遷都以前、賀茂氏秦氏が居住した地です。

秦氏賀茂氏は血縁関係を結んでいた

 

いずれも農耕を生業としており、菅原道真を祀るよりも前から雷神を祀っていた。

 

なぜ、雷神を祭るか?というと、

 

①雷は恵みの雨をもたらす兆しであり、

 

②水田に落雷する様子をみて稲穂の結実には落雷が欠かせないと考えていたからだ。

 

雷のことを「稲妻」という。

「稲の妻」つまり「稲に欠かすことのできない存在」

と呼ぶことからもわかるだろう。

 

近年の研究からも、落雷が大気中の窒素を地上にもたらす役割が明らかにな

 

◆殺牛農耕祭祀

 

さらに、農耕には雷の他に牛が欠かせせない

地中を深く耕すには牛が必要で、

牛は今でいうトラクターの役割を果たしていたのだ。

 

そこで、雷神だけでなく牛を祀っているという訳だ。

 

ただ、牛を祀るだけでなく、

 

どうも雨ごいのために牛を生贄にしていたと思われる。

参考:http://www.miyakejima-university.jp/uploads/a7a880f76d57125cd1b68b378d817c23f4238709.pdf 

京都 (岩波新書)

京都 (岩波新書)

 

犠牲」という熟語が牛偏でできていることからも、

 

牛と生贄は切っても切れない関係にあることが分かる。

 

しかし、

 

牛=生贄」(殺牛農耕祭祀)というロジックは、

 

日本のものではなく中国・韓国由来の発想です。

 

秦氏は渡来人集団であり、

 

賀茂氏は葛城から山背に移動してきたが、

 葛城で活動していたころに殺牛祭祀の風習をもつ渡来人と融合していた。

 

彼らが、殺牛祭祀を北野の地に持ち込み、

 

それが北野天満宮の臥牛像という形で残ったのだ

 

◆七夕伝説と殺牛祭祀

 

雨ごいのために、大切な牛を殺すの??

 

現代の日本人にはよくわからないロジックなので

 

もう少し掘り下げたいと思います。

 

ここで話がかわるが、七夕のお話しをおさらいしましょう。

 

日本では七夕伝説は次のようなストーリーとして定着している。

 

つまり、

 

織姫と彦星(牽牛)は、天上界でそれぞれ織物と農業にいそしんでいたが、

おつきあいを始めると、恋愛に夢中になり仕事をしなくなったので、

天帝が怒り、二人を天の川で隔てて、1年に1回だけ会うことにしたという

悲恋の物語である。

 

日本の七夕のストーリーは、恋愛の部分がクローズアップされ、

もともとのストーリーの本質部分が抜け落ちている

 

七夕のストーリーはもともとは中国由来の伝説です。

 中国での七夕のストーリーは次のようなものだ(適当)。

 

昔々、あるところに牛使いの男(牛郎)が住んでいた。ある日、飼っていた牛が「泉に天女が舞い降り水浴びをするので、羽衣を隠して天上界に帰れないようにして自分の妻にしてしまえモー。さすがにその歳で独身はやばいモー。」としゃべりだした。男は驚いたが、牛のいうことも最もだと思い天女を自分の妻にしてしまった(監禁かよ‼)。その後、男と天女の間には子供ができ夫婦として幸せな生活を送った。しかし、天女は天上界で織物の仕事をしており、西王母は、「織物ができないと困る」と怒り、男が留守の間にいやがる天女を無理やり天上界に連れ帰った(今度は拉致!!)。帰宅した男は、途方にくれたが、哀れに思った牛が「私の命は長くないモー。私を殺して、私の皮を着てみるモー。そうすれば天上に上って天女を取り戻しにいけるモー」といった。男は長年苦楽を共にした牛を殺すことに躊躇したが、なきじゃくる子供たちを見て決意。牛を殺し皮を着て天女を追った。男が西王母に迫ろうとしたとき、西王母はかんざし(勝)を抜き男に投げつけた。そうすると天の川ができ、男と天女は離れ離れになってしまった。

※機織りは世界秩序のメタファー。「北極星(秩序)=西王母→機織りの器具「勝」(地軸との類似性) →機織り→織姫」の連関がある。「織姫と彦星→織物と牛による農業」で文明の象徴でもある。

 

注目すべきは、牛の役割である。

 

牛は、男をサポートする存在で、

牛の皮は、地上界と天上界を繋ぐアイテムなのだ。

 

中国の他の伝承には、

 

もともとは牛は天上界にいたが、

飢饉に困る地上界の人間に同情し、天上界の食料庫から

穀物を奪って地上界に降らせたが、天帝の怒りを買い、

牛は地上界に追放されたという話がある。

 

このことから、

牛は単なる家畜ではなく、

人間を助ける堕天使的存在で、

地上界と天上界の媒介としての機能があるのだ

 

北野天満宮で行われた殺牛農耕祭祀の根源には、

 

牛=天上界との媒介=通信手段という発想がある。

 

殺牛→電話器→「もしもし天帝ちゃん?オレオレ、飢饉で困ってんだけど雨を至急よろしこ~」というイメージです!?

 

北野天満宮の牛は、古代中国の信仰に由来するというお話でした。

※さらに殺牛祭祀は、オリエントのミトラ教(「牡牛を屠るミトラ」は有名なモチーフ)にまで遡れるのではないかとの指摘もある(摩多羅神トラ音写説・参照)。その辺はよくわからないが、ワクワクする話ではある。

JAIRO | 常行堂の守護神・摩多羅神

 

【参考文献】

西王母と七夕伝承

西王母と七夕伝承

 
謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

 
中西進と歩く万葉の大和路 (ウェッジ選書)

中西進と歩く万葉の大和路 (ウェッジ選書)

 

・藤沢駒次郎「京とくらしと出来事」(京都近鉄百貨文化サロン)

 

【追記】

◆古代の賀茂祭・秦氏の牛祭り

葵祭の前身の古代の賀茂祭の内容が「本朝月令」の「秦氏本系帳」に記載されている。

その中に「猪の頭を被って祭祀をおこなった」という奇妙な記載がある。これも殺牛祭祀と関連性があるのかもしれない。

また、京都三大奇祭に摩多羅神牛祭りがあるが、これも殺牛祭祀に関連しそう。

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 牛祭り wikipediaより

◆乳牛院

北野天満宮と牛との関係は、殺牛祭祀だけではない。

意外だと思われるかもしれないが、

平安時代には乳牛院という官営の牧場北野天満宮の近くにあったのだ。

(※「三代実録」には、牧童の失火により周辺の野が焼けたとの記載もある。)

馬喰町という地名も北野が牧場であったことに由来する。

(※馬喰町は、現在飛地になっている牛舎が離れていたのだろうか?)

北野で生産された牛乳は、宮中に届けられレアチーズ(蘇)にして食べられた。

正月には宮中で「蘇甘栗」(蘇と甘栗をあわせたもの)を食べるのが習わしで、

このデザートを届けるための役職(蘇甘栗使)まであったそうだ(しかも名誉職)。

宮内庁大膳課・レアチーズ係・特命係長」てな感じでしょうか??

 

※蘇甘栗使は六位の蔵人が務めていた。六位の蔵人は下級官僚ではあるが、天皇秘書官的立場であったので大極殿に上がることができ、しかも天皇クラスの高貴な者の着物である麴塵袍の着用が許されていたという。枕草子清少納言は「めでたきもの」の1つとして六位の蔵人を挙げ、「蘇甘栗使として参上した時には、蔵人は大変なもてなしを受けるので、どこの天下人がやって来たのかと思うほどである」と書いている。おいしいスイーツの到着をみんなが心待ちにしていたのでしょうか??それにしても地位の低い者が天皇と同じ扱いを受けることを「素晴らしい」・「痛快」とする清少納言の評価が面白い。清少納言の反骨精神が垣間見える。

※【蘇の作り方】

 ・材料:牛乳

 ・作り方:煮詰めて固形にする。以上。

 実際に作ってみたが、おいしいのだがやや乳臭い

 はちみつ(蘇蜜)か甘栗のクラッシュ(蘇甘栗)をまぜて食べたほうがいいです。

 ちなみに藤原道長蘇蜜を食べたそうですよ~

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※蘇 wikipediaより

【異国の北野天満宮①】三光門の謎

 

今回は、北野天満宮へ異国を探しに行きませう。

 

◆星欠けの三光門

 

北野天満宮の参道をまっすぐ行くと三光門がある。

 

北野天満宮菅原道真を祀ることで知られているが、それより以前から天神を祀っていた(続日本後記)。この天神信仰三光信仰といい、日月星をお祭りしていたのだ。三光信仰からすると門に日・月・星のシンボルを施さなくてはならないが、ここの門には星のシンボルがない。このことから「星欠けの三光門」として北野天満宮の七不思議に数えられている。

※ちなみに三種の神器は日月星の象徴(鏡=日、勾玉=月、剣=星 ←七星剣を想起)です。

星が欠けている理由だが、北野天満宮のHPでは以下のように説明されている。

 

本殿前の中門は三光門と呼ばれ、神秘的な「星欠けの三光門」伝説が残っています。それは、門の名は日・月・星の彫刻に由来しているけれども星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。平安時代、御所の場所は現在とは異なり当宮を北西に臨む千本丸太町に位置し、帝が当宮に向かってお祈りをされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからだと伝えられています。

 

 

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※星欠け三光門 北野天満宮HPより

 

つまりは、御所の北にある北野天満宮を遥拝したとき、北極星が見えるからわざわざ彫る必要はなかったというのだ。真相は如何に??

三光門全体が五芒星の形に見えるので、門全体が星を表すのでは?(妄想)

 

ここで三光信仰についてもう少し掘り下げてみよう。

 

三光信仰のベースは北辰妙見信仰で、北辰(北極星)を崇拝する中国の信仰だ。

北辰信仰は世界樹信仰というオリエントから地中海・北ヨーロッパに広がっていた古代信仰にルーツをもつ。

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北欧神話世界樹(ユグドラシル)、生命の樹とも呼ばれる。北極星が高い位置にくる地域、つまり比較的緯度の高い地域で住んでいた民族が信じたのだろう。wikipediaより

 

夜空は北極星を中心に回転しており、これをみた古代人は「世界は、大地に傘が刺さっているような構造でである」と想像した。天空を「傘」、樹木を「傘の柄(宇宙軸)」に見立て、大地から北極星に向かって樹木が伸び大地と天を繋いでいると考えた。樹木を通じて天使が行き来をする天地を繋ぐエレベーターと考えたのだ。

世界樹を軸として天空が回転していることから、北極星に伸びる世界樹あるいは北極星を畏敬の対象にしたのだ。

 

旧約聖書ダニエル書にも世界樹の記述がでている。

 

 

ネブカドネザル2世が別な不吉な夢を見た。それは天に達する一本の高い木に、豊かな実が実り、鳥が巣を作り、動物は木陰に宿っていたが、聖なる天使が下って来てその木を切り倒し、切り株だけを地中に残したというものであった。

 

平安貴族のシルクロード (角川選書)

平安貴族のシルクロード (角川選書)

 

 中国では、世界樹須弥山として描かれる。

 

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須弥山 wikipediaより

 

壁画・彫刻になると山頂には北極星のシンボルとして女神・「西王母」が描かれる。

中国の古墳から出土した図(五胡十六国時代)を見てほしい。

 

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中央にそびえるのが世界樹・須弥山である。周りは火山で覆われており頂上部はオーバーハングしていて容易に登れそうにない。

 

左下には太陽の象徴の三足カラスが描かれている。日本でいうヤタガラスである。

太陽とカラスが結びつけられたのは太陽の黒点をカラスに見立て、三本足は陰陽思想のを象徴するからだろう。ヤタガラスは古事記にもでてくるが元をたどると中国の思想なのである。また、ヤタガラスが神武天皇を導くが、鳥が王を導くというストーリーはフン族で有名なハンガリーの建国神話にもでてきている。建国神話は、ユーラシア大陸騎馬民族との結びつきがあるのだ。日本のヤタガラス・日本代表のエンブレム・建国神話は舶来物なのだ。

 

そして、右には九つの尾をもつ狐が描かれている。九尾の狐である。能の殺生石」・最近では「うしおととら」「NARUTO」などのアニメでもおなじみですね。須弥山に上がってくる者から天上界を守っているのである。もとは九本の尾すべてに獅子の頭部がついていり、グロい姿なのだがマイルドな表現に変化した。

 

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 ※葛飾北斎の九尾の狐 傾国の王妃に化ける話。西王母とのイメージの連関があるのだろうか。wikipediaより

 

そして頂上には西王母が鎮座する。西王母の頭には「」という道具が突き刺さっている。少しわかりくいので他の墓地の壁画↓を見てください。

 

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これは機織りの道具である。機織りには世界を調和させる意味合いがあると考えられている。また、機織りは、非常に重要な産業でした。今でいえば自動車産業です。特に養蚕は中国以外には知られていない最先端技術であった。ローマにもシルクロードあるいはインド洋を通じて絹織物が運ばれ珍重された。ローマの百科事典「博物誌」(プリニウス)には、「絹織物は婦人に着させても裸のようでめちゃエロい」(超訳)とかかれています。また中国が製法を極秘にしたことから、ギリシャの頃は作り方までは伝わっておらず、「製法は分からないが、木の繊維を極限までたたきのばして作ったのだろう」(ストラボン・「地理誌」)と記載してる。今の感覚では、織物の道具を重視する理由は分かりにくい、当時は国に財をもたらす重要なアイテムだったのです。七夕伝説の「織姫」にも繋がりますが、この話は次回の臥牛像の謎で触れたい。西王母はもともとは両性具有のグロテスクな神様でしたが、女性の姿に変化した。ユーラシアの地母神信仰・ヨーロッパの女神のイメージが影響したとの説もあり、その関連性が指摘されている。

 

ワントップ西王母ですが、やがてツートップ、男女一対神となる。西王母東王父ですね。

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その後、北極星の地位を天帝に奪われ、月としての地位に納まるのである。

センターを追われたアイドルのようでなんだか悲しい・・・

(古代の女性崇拝から男性優位の社会ヘシフトしたのでしょう)

つまり、北極星が天帝、太陽が東王父・月が西王母です

ここに三光信仰のプロトタイプができあがるのです。

 

三光門のもとをたどれば、ユーラシアの原始信仰の世界樹地母神信仰にたどりつくというお話でした~

 

【追記】西王母地母神

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①チャタル・フユックの地母神

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メソポタミアのイシュタル(紀元前1500頃)と森の神・フンババ

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③ローマのキュベレ

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④中国の西王母

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⑤日本の三角縁神獣鏡

 

西王母の起源はどこにあるのか?

 

諸説あるが、個人的にはオリエントの地母神に起源を求める説に魅力を感じる。

 

西王母の原像 : 中国古代神話における地母神の研究. Author. 森, 雅子 ↓

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&ved=0ahUKEwiuqvvSjNTTAhXHNJQKHYlCDSEQFgg8MAI&url=http%3A%2F%2Fkoara.lib.keio.ac.jp%2Fxoonips%2Fmodules%2Fxoonips%2Fdownload.php%3Ffile_id%3D59004&usg=AFQjCNHCfQtKkCtmPU44LM77rDTup1YQ7Q

 

 

西王母の原像―比較神話学試論

西王母の原像―比較神話学試論

 

上の5つ(①~⑤)の意匠をみてほしい。

 

それぞれの意匠には共通点がある。

 

それは

 

女神が両脇にを伴っている

 

ことだ。

 

チャタル・フユックの地母神

 

①はアナトリア(トルコ)のチャタル・フユックで発見された女神像で、

 

紀元前5000年前のものとされ、現時点では最古の地母神像である。

 

アナトリア地母神は後にクベベとなるのだが、

 

このクベベの属性として、

 

・森、山の女神

・百獣の女主人

・両性具有性あるいは性愛=完全性

・豊穣の神

 

があり、最古の地母神もこのような性質を持っていたと考えられる。

 

狩猟採集生活では、

食料としての獣、食をもたらす森、そして繁殖・生産が重要視されたのだろう。

 

チャタル・フユックの地母神は、

 

獣を伴い、ふくよかな姿は繁殖を象徴している。

 

メソポタミアのイシュタルとフンババ

 

メソポタミアギルガメシュ叙事詩の中のイシュタルとフンババ

 

アナトリア地母神に由来すると考えられる。

 

もっとも、メソポタミアでは都市生活が発達し、

森との関係が薄まったため、

 

女性性と獣性が分離され、

 

女性性は「イシュタル」、

 

獣性は「フンババ」に収斂していく。

 

イシュタルは好色な女神で、

 

ギルガメシュ叙事詩では男神を従えていることから

 

豊穣、両性具有性を示している。

 

また、フンババは、ギルガメシュ叙事詩では森の守護神とされている。

 

イシュタルとフンババを一体的に考えれば、

 

二神は、アナトリア地母神の性質をよく継承している。

 

なお、メソポタミアのイシュタルの神殿では、

毎年新年に王と巫女との聖婚が行われる風習があり、

七夕伝説との類似性も指摘されている。

 

◆ローマのキュベレ

 

②は、ローマの女神キュベレーである。

 

キューベレーは、アナトリアのクベベがローマに伝わったものである。

 

こちらも女性が獣を引き連れている。

 

脇に男性神を引き連れているが、これはいわゆるセフレであり、

 

キュベレの両性具有性を象徴している。

 

キュベレーも初期の地母神の特徴をよく引き継いでいる。

 

◆中国の西王母

 

中国の西王母は、

 

龍虎座に座り、両脇に龍と虎の獣を伴う形になっている。

(龍は「東」・虎は「西」の象徴だから、その中心に座ることは世界の中心に座ることを意味している。)

 

また、右脇に男性を引き連れているし

 

西王母東王父とセットで描かれることがある。

 

これを両性具有性とみることができるかもしれない。

 

さらに西王母は、須弥山の頂上にいることから、

 

山岳・森の女神の属性を有している。

 

以上より、西王母はオリエントの地母神の属性を良く備えており、

 

西王母の源流はオリエンの地母神と考えられる。

 

時間的距離的乖離はあるが、シルクロード・激しい騎馬民族の往来、

 

そして、意匠の伝達速度の速さを考慮すると大いに可能性のある説だと思う。

 

三角縁神獣鏡

ちなみに、卑弥呼が所有していた三角縁神獣鏡

 

「神」は西王母、「獣」は神獣を意味します。

 

京都文化博物館にいくと三角縁神獣鏡をみることができます。

 

遠く離れたオリエントの女神を想像しながら、鑑賞するのも乙なものです。

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 ※三角縁神獣鏡 wikipediaより

 

インド神話ドゥルガー

論文では指摘がないが、図説世界女神大全によれば、

インド神話のライオンにまたがるドゥルガー

獅子を伴うオリエントの地母神と同根という。

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ちなみに奈良の法隆寺には有名な玉虫厨子がありその基壇部分に世界樹・須弥山の姿が見られます。

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 ※玉虫厨子 wikipediaより

※復元された玉虫厨子

http://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi_zushi.htm#tamamushi

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑩(完)

 

 

沈む出雲氏・昇る賀茂氏

 

◇山城賀茂氏は天津族!?

 

山背の開拓者・出雲氏は衰退していく中、

 

賀茂氏勢力拡大に成功する。

 

勢力拡大の要因の1つが、

 

平安京遷都の際に王城守護の地位を手に入れたことだろう。

 

上賀茂・下鴨神社は、伊勢神宮に次ぐ社格を与えられ、

 

他には伊勢神宮にしかいない斎宮(皇女が神に仕える宮)もおかれる。

 

ほとんど天皇家の神社としての扱いを受けるのだ

 

もちろん社領も与えられ経済面も盤石だ。

 

令義解」では、

・伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造斎神は、天神(あまつかみ)

・大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神は、地神(くにつかみ)

と記されている。

 

つまり、

 

山城の賀茂族は天津族」とされているのだ。

 

天津族だから天皇家に優遇されるのは当然とも考えられる。

 

◇山城賀茂氏出雲族!?

 

しかし・・・

 

賀茂氏はもとは出雲氏と同じ出雲族であった。

 

その証拠がいくつかある。

 

【証拠1】

 

上賀茂は神山」を「下鴨は御蔭山」をそれぞれの信仰の対象としている。

 

賀茂氏の信仰の本質は、山体・磐座信仰である。

 

京都三大祭りの1つ、葵祭も磐座信仰がベースにある。

 

先に述べたが、山体・磐座信仰は出雲族の特徴の1つだ

 

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(賀茂川より「神山」を望む。古代人は柔らかな山容を好んだようだ。)

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 (高野川から御蔭山を望む。分かりにくいが中央の小高い山。しばしば、下鴨神社上賀茂神社から分離されたと説明されるが、異なる神奈備山を頂いている事実をどう説明すればよいだろうか。はじめから別々の神社だったといえないか。)

【証拠2】 

 

山城国風土記逸文」によれば、

 

山城賀茂氏の祖は、葛城鴨氏としており、

 

葛城鴨氏ヒトコトヌシ(オオクニヌシの息子)を祀っている。

 

【証拠3】

 

下鴨神社の本殿の前の「言社」という不思議な摂社がある。

 

本社の拝殿前に摂社が7つ並ぶのは珍しい光景だ。

 

下鴨神社が編集している「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」という

 

本をパラパラ読んでみたが、

 

言霊信仰からみたいな趣旨の説明があるものの

 

はっきりとした由来は分からずじまいだった。

 

本当に「すべて」が書かれているのだろうか。

 

言社は7つの小社で構成されており、祭神はすべてオオクニヌシなのである。

 

オオクニヌシには少なくとも7つの名前がある。

 

多くの名前がある理由は、

 

出雲が勢力を拡大する中で土着の神様を統合していった結果と考えられている。

 

名前の多さは、神力のバロメータの1つ。

 

7つの社はそれぞれの名前に対応している。

 

拝殿前に出雲の主神をご丁寧に七柱も祭る念の入れ様

 

賀茂氏出雲族の主神を手厚く祀っているのである。

 

言社という名前も、オオクニヌシの息子のヒトコトヌシを思わせる。

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 (本殿前の言社案内。「えと詣」となっているので、祭神が縁結びで有名な色男の大国主であることを知っている人は少ないだろう。縁結びの願掛けは相生社より言社がいいのでは??ちなみに相生社の祭神は、宇宙を生みだした滅茶苦茶エライ神様です。God of God。拝むときは粗相のないように(笑))

 

【証拠4】

 

下鴨神社の社伝も、出雲氏賀茂氏同祖であることを認めているところだ。

 

以上のことから

 

賀茂氏は、もともとは出雲族であったといって間違いないだろう。

 

では・・・

 

なぜ出雲族だった賀茂氏天孫族として扱われたのか?

 

そこには平安遷都の際の桓武天皇の心理状態が影響していると思われる。

 

桓武天皇は政敵を次々と追い落とし天皇の地位を手に入れた。

 

無実の罪で殺された多くの屍の上に築かれた政権なのです。

 

即位後、身近の人々が1年に1人位のペースでバタバタと死に

 

水害等の天変地異が次から次へと起き、東北では蝦夷の反乱が勃発。

 

桓武天皇は、思い当たる節があったのでしょう、

 

政敵の怨霊の仕業だと思い、長岡から逃げ出すのだった。

 

遷都の速度は尋常ではなく、決定から遷都まで週間!!

 

桓武天皇の恐怖心は相当なもので、ほとんどノイローゼ状態だ。

 

次に呪われるのは朕やもしれぬ。やばい。やばい。」

 

と急いでいるのである。

 

遷都の際に重要なのが王城守護の祭神の決定である。

 

都の鬼門を封じる祭神を決めなければならない。

 

しかし、その頃、鬼門にあったのは出雲寺・鴨社などいずれも出雲族ゆかりの寺社

 

天津族たる天皇家の王城守護を国津神に任せるのはどうにも具合がわるい。

 

さりとて出雲族の神を移動させて天津族の神をまつり直すと

 

地祇神の怒りを買いさらなる災いが起こるかもしれない。

 

苦肉の策として賀茂氏を天津族に組み込み、

 

上賀茂・下鴨神社天皇家の守護としての地位を与えたと考えられる。

 

※村井康彦「出雲と大和」、「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」参照

 

令義解では、

 

山城の鴨天神(あまつかみ)、葛木の鴨地神(くにつかみ)」

 

と記載されている。

 

同じ鴨氏がなぜ天神と地神に分かれるか

 

と疑問に感じるが、このように考えれば合点がいく。

 

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(下鴨神社HPより。言社の位置に注目。中門正面・祭神に準じる配置)

 

山城賀茂氏出雲族なので、本来はオオクニヌシを祭神とすべきところだが、

 

王城守護としての立場上、オオクニヌシを祭祀の中心にもってくることはできない。

 

拝殿前」という言社の配置は、その辺の心理をよく表しており、

 

絶妙なバランス感覚だと密かに想像して楽しんでいる。

 

同じ出雲族ではありながら、

 

天皇家から支援を受けられない出雲氏は没落し、

 

天孫族出雲族の二面性をうまく使い分けながら天皇家から支援を受けた賀茂氏

 

現在にいたるまで繁栄を享受するのであ

 

桓武天皇の代で、天武系の皇統から天智系の皇統へとシフトするのだが、

 

両氏に明暗が生じた深淵には、

 

天武系の皇統VS天智系の皇統の対立構造があったのではないかと想像する。

 

出雲氏天武天皇側につき勢力を伸ばしてきたからだ。

 

◇山背出雲氏の末裔

 

賀茂氏に入れ替わるように京都から姿を消す出雲族だが、

 

それでもプライドをもって生きた者もいた。

 

京で流行していた謡に「雲太、和二、京三」というのがある。 

 

大きな建物ベスト3を口ずさむものだ。

 

出雲大社が1番東大寺が2番、大極殿が3番としている。

 

おそらく、出雲氏の末裔が歌い始めたのだろう。故地出雲への憧憬と自負を感じる。

 

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 ※「口遊」(源為憲著) 平安時代に貴族の子供のために書かれた教科書。「雲太・和二・京三」の記載が見られる。「九九」も掲載されている。当時は情報の伝達・蓄積・複製の方法が限られていた時代だったので「学問=暗記」。口ずさんで暗記したのだ。学者が読んでも難しい部分もあるという。恐るべし、平安時代の小学生。

 

 

また、「出雲郷」という地名は消えてしまったが、

 

出雲路」という地名は1200年以上に渡って継承されている。

 

地名がうつろいやすいことは平成の大合併からも容易に想像がつく。

 

これだけ長い間地名が残るのは

 

そこに住む人々が地名に特別な強い思い入れがあったからに違いない。

 

出雲へと続く道

 

遠い異国で出雲を思い続ける出雲氏の末裔が、

 

大切に守り続けてきた地名ではないだろうか。

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 ※夕暮れ迫る賀茂川(出雲路橋たもとから)

 

出雲氏の出雲井於神社は,

 

賀茂氏下鴨神社に吸収され、

 

本殿の傍らで静かにたたずんでいる。

 

敗者の神様も消さずに残すのは日本文化のいいところです。

 

そんな出雲井於神社にも少ないながらも熱心に参拝する人がいる。

 

氏子だろうか。

 

山背出雲氏の末裔は今もいるのかもしれない。

 

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑨

消えゆく山背出雲氏

 

◇出雲郷からの逃亡者

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳によれば、

 

かなりの数の女性が出雲郷から逃亡した記録が残っている。

 

なぜ逃げる必要があったのだろうか??

 

原因の1つに洪水被害(付随する疫病)があったのではないかと想像する。

 

出雲路付近は、風光明媚な賀茂川に近く、

 

電通島津製作所の保養施設のある人気スポットだが、

 

土地が突然下がる洪水常習ポイントで、

 

治水技術が未熟な古代から近世にかけて

 

洪水に悩まされてきた。

 

秀吉がつくつた堤防(御土居)もこの辺りは二重にして強化しているくらいだ。

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 (出雲路橋西側・不自然な家並は2重の堤(御土居)の痕跡だ)

 

他には、

 

より労働条件のいい土地への移動(三世一身法など口分田制度が崩壊する中でどの豪族も

 

労働力を求めただろう)、賀茂氏秦氏の勢力拡大重税化などが考えられる。

 

いずれも想像の域は出ないが、

 

730年頃には既に山背出雲族の勢力に陰りが見え始めていたのだ。

 

◇ナマズ汁と破戒僧

 

宇治拾遺物語」にナマズに転生した父親をたべた上出雲寺の別当の話がでている。

 

話の粗筋はこうだ。

 

 平安の末期、上出雲寺は古くなっており、ろくに修理もしていなかったため、御堂も傾いていた。

 ある日のこと出雲寺の別当(住職)浄覚は、夢枕で死んだ父親から次の話を聞いた。

「明後日、大風が吹いてこの寺は倒れてしまうだろう。その時、ナマズに転生した私は寺の瓦から這い出てもがき苦しむ。そこでお願いだ。ナマズになった私を鴨川にはなしてはくれまいか。そうしたらのんびりと琵琶湖で余生がくらせる。」

これを聞いて浄覚は目を覚まし、事の次第を妻に告げた。

 その後、夢のお告げ通り、大風が吹き寺が崩れ、瓦の下からナマズがでてきてもがき苦しんでいた。浄覚は1メートルもあるマルマルとした魚に喜び、鉄棒でナマズの頭を一突きにした。それでもナマズは苦しむので子供に鎌をもってこさせ、エラを掻き切って家に持ち帰った。

 妻はなんで殺してしまったのと抗議したが、浄覚は「こんな立派なナマズは放っておいたら他人に取られて喰われてしまう。どうせ喰われるなら、息子や孫に喰われるのが親父様も本望だろう」と取り合わず、妻にナマズ汁を作らせ、「さすがに親父様の肉だ。そこらへんの鯰とは違う。うまい。うまい」と夢中になって食べていたのである。

 しかし、夢中のあまり喉にナマズの骨を詰まらせて嗚咽の果てに死んでしまうのであった。(浄覚の父親も妻帯。ナマズに転生したのも、その報いか? )

 

琵琶湖の (~゜・_・゜~)

 琵琶湖には3種類の鯰がいる、そのうち

 ・イワトコナマズは美味で蒲焼は、ステーキ・トロ並みのおいしさなのだそうだ。

 ・一方、1mを超えるビワコオオナマズは、油が多くめちゃくちゃまずいらしい。

  市場に出してもキロ20円でも売れなかったようだ。

  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/25/3/25_211/_pdf

 ・私たちも外来種のナマズを日ごろ食べています。のり弁の白身魚とかです。

 ・浄覚が食べたのは大きさからしてビワコオオナマズ

 「さすがに親父様の肉はうまい」といったのは、

  ビワコオオナマズは不味いという認識があったからでしょうか。

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  (ビワコオオナマズブラックバスをも捕食する外来種スイパー。wikipediaより)

 

 

この話から分かることは、

 

平安末期、出雲寺は荒廃していたということだ

 

今昔物語にもそのような事が書かれているので間違いないだろう。

 

そして、出雲寺の住職は妻子持ちで肉食までする破戒僧として描かれているのである。

 

大宝律令下では、僧侶は、肉食、妻帯、金銭を得るための説法が厳しく禁止されていた。

この説話からは、戒律を守らない俗法師に対する蔑みが伝わってくる。

 

経済的困窮のあまり俗法師になった出雲氏に対する軽侮から生じた説話だろう。

 

※俗法師については、喜田貞吉 俗法師考参照

 

しかし、出雲寺の住職にはどうしようもない事情があったのかもしれない。

 

戸籍が示すように出雲郷の人口減少は氏子の減少を意味し氏寺の経済力の低下を招く。

 

お寺を維持するためには、金銭の目的の説法、労働力の確保のために妻帯も必要だったろうし、鴨川の川魚は貴重な食糧だったろう。

 

戒律うんぬんは言ってられない。

 

御霊神社と唱聞師

 

出雲寺には境内にあった御霊堂(遷都の際に大和から移されたそうである)

 

の役割が拡大する中で

 

やがて寺の性格を失い、御霊神社となっていく

 

御霊神社は、天皇にあだなす亡霊を鎮める役割を担ったのである。

 

御霊神社祀られている怨霊のラインナップを見ていると不思議なことに気付く。

 

怨霊のビックネームの中になぜか吉備真備が混じっている。

 

彼は非業の死をとげたわけではないのに、

 

なぜ吉備真備御霊神社に祭られているのか?

 

この答えが古地図(中昔京師地圖)にある。

 

上御霊神社の横に唱聞師村という唱聞師が集住する村がある。

 

 

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 ※応仁の乱の頃の古地図。上御霊で戦(上御霊合戦)が勃発すののだが、西に川が流れ、南に相国寺の堀があるため、東方面で戦闘が開始され、唱聞師村は焼き払われる。唱聞師池という大きな池がある。洪水によって形成されたのだろうか?江戸時代の古地図にはすでになく場所は不明だが、京都市の洪水ハザードマップから旧京都産業大学付属高校の北東だったのではないかと想定する。その後、今出川の流路変更に伴い水抜きが可能になって消滅したのではないか?

 

 

唱聞師とは民間の陰陽師のことで、陰陽師の祖は吉備真備

 

ここで話がつながった。

 

つまり、

 

御霊神社の脇に住まう唱聞師たちが御霊会にかかわり、

 

彼らが祖の吉備真備を祭りあげたと考えられる。

 

柳田国男は「唱聞師の話」の中で唱聞師と御霊会との関連性を指摘している。

 出雲郷の地域には、後に北畠唱聞師桜町唱聞師の2派があった。

 おそらくは、それぞれ上御霊神社下御霊神社に対応していたと思われる。

 

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※上杉本 洛中洛外図屏風 の中の唱聞師村。屋根に天道花(豊作を祈る行事)を掲げる。入口に鳥居、天道花の横に瓢箪。呪術者集団の一面を見せる。前を歩いているのは「大原女」。煮炊きに使う薪を京中に運んできた。人間が運べる量はたかが知れている。牛ががんばっています。牛がなんだかカワイイ。一束いくらで売ったのだろうか?いっても5000円くらい?大原・京都は往復30km。過酷な仕事です。狂言にも「木六駄」という演目に薪を運ぶ牛が出てくる。

 

この唱聞師たちは陰陽師の一派ではあるが、安倍清明のようなエリート官僚ではない。

 

寺社に仕え租税も納めなくてもよいのだが、

 

それだけでは食べていけないので市井にでて生活費を稼がなくてはならない

 

唱聞師の性格は次第に呪術的なものから芸能・エンタメ的なものに変化していく。

 

おもしろくない呪術よりも芸能の方が庶民受けが良かったのだろう。

 

※唱聞師の芸能は、猿楽・能の原型といわれる。

 

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(上杉本 洛中洛外図屏風 左義長の様子。道行く人の目をくぎ付けに。唱聞師によるものか?)

 

その反面、唱聞師の社会的地位の低下することとなる

 

また、出雲阿国歌舞伎の祖といわれるが、唱聞師の1つのアルキ巫女だった

 

一説には出雲路幸神社のアルキ巫女であったとされる。

 

中世は律令制が崩壊し、神聖なものが俗なものに変質していく時代だが、

 

山背出雲郷の衰退は時代の縮図のようだ。

 

以上のことから、次の事が言えるのではないか。

 

 

東寺・西寺に比肩する規模の出雲寺を建立するほどの勢力を誇った出雲氏だったが、

 

平安末期には出雲寺は朽ち果て経済的困窮を極めた。

 

中には課税から逃れるために俗法師となる者も出たと思われる。

 

出雲氏の評判が失墜していたことは説話からもうかがえる。

 

出雲寺はやがて御霊神社に変わる。出雲族は氏寺を失ってしまうのである。

 

唱聞師が御霊会にかかわっていくのだが、中には出雲氏も含まれていたであろう。

 

やがて唱聞師は呪術集団から芸能集団へと性格を変え、エンタメ業に活路を見出す。

 

氏寺の消滅により求心力を失った出雲氏は歴史の表舞台から姿を消していくのである。