【上御霊神社と光琳・燕子花図屏風】
◇弯曲する上御霊前通り
上御霊神社周辺の地図です。
大きく弯曲する道(上御霊前通り)がありますね。
現地の写真がこちら ↓
京都にはあまり見かけない道筋だと思います。
これは何かというと・・・今出川の痕跡です。
(都名所図会より 上御霊神社を囲む様に川が流れている。)
流路は時代によって変化しますが、平安時代には中川とよばれました。源氏物語にも登場する由緒正しき川なのです。
ちなみに、この道(上御霊前通)だけ周辺の道よりも広くなっていますが、これはかつて馬場があったからです。上御霊馬場町として地名にも残っています。
上賀茂・下鴨神社のように馬に係る神事をしていたのでしょうか??
今回は、この今出川と尾形光琳の燕子花図屏風についてご紹介したいと思います。
(尾形光琳作・国宝「燕子花図屏風」)
◇上御霊の燕子花
御霊神社の周りを取り囲むように堀がめぐらされていますが、これがかつての今出川の痕跡です。戦前までは水が流れていました。
当時は天然の燕子花(カキツバタ)が群生し、珍しい四季咲きだったそうです。
しかし、川の暗渠化に伴い、水が絶えると燕子花も姿を消してしましました。
(上御霊神社・南門付近)
◇尾形光琳住居跡
一方、上御霊神社から数十mの場所に尾形光琳の邸宅跡があります。尾形光琳は、ここで数年住んだのち、燕子花図屏風を完成させました。
(尾形光琳・邸宅跡)
光琳も上御霊神社の燕子花を楽しんだはずで、上御霊の燕子花が、少なからず燕子花図屏風の制作に影響を与えたといわれています。
燕子花図は、大田神社の燕子花をモチーフにしたという説もありますが、燕子花屏風の花の配置は水路に咲く燕子花を連想させるので、自宅の近所の上御霊の燕子花をモチーフにしたのではないかと思います。
今は燕子花は見ることはできませんが、初夏になると一初(イチハツ)の花をみることができますので、往時の今出川の姿を重ね合わせてはいかがでしょうか。
※上御霊神社の一初(イチハツ)
なんの変哲もない水路に国宝誕生の秘密があるのかもしれません。
※参考資料
・上御霊神社・社報「ごりょうさん・17号」
【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて④
前置きが長くなりましたが、相国寺大塔の場所をさがしませう。
①地名②古地図③洛中洛外図屏風④古文書⑤高低差からアプローチしてみます。
◇地名
前回、相国寺大塔の基壇が、一辺:30m、高さ:2m以上と推定しました。
非常に大規模な基壇だったので塔が焼失した後も長期間、基壇は残っていたようで、
地域の特徴を示す地名となりました。
その名は「塔之段町」!! そのまんま。
上塔ノ段町付近が有力な候補地です。
(地名は偉大!!有史以前、縄文時代までさかのぼれる地名もあるかもね~)
◇古地図
続いては古地図からのアプローチです。
前出の中古京師内外図によれば、赤く囲った部分が相国寺大塔があったそうです。
しかし、
縮尺が明らかに変なので、参考程度の資料です。
上塔之段町にあったことの裏付けにはなりそうです。
洛中洛外図屏風(上杉本)は、相国寺七重大塔より眺めた景色を書きとったとの説があります(石田尚豊「洛中洛外図屏風についてーその鳥瞰的構成ー」)。
屏風の寺社仏閣の位置を実際の地図に落とし込むと一点(塔之段町付近)から放射状に配置されていることが分かり、屏風は相国寺七重大塔からの眺望であるとの仮説がなりたつそうです。
この説が正しかったとすると、塔から真西を見た風景が屏風の中心になります。
つまり、三門を通過する東西のライン上に相国寺大塔があることになります。
下の図でいうと赤いライン上です。
◇古文書
古文書からのアプローチ
【相国寺塔供養記】
その中に、「落慶法要の際の僧侶の控え室が、塔の東門の外、南北に斜めに伸びる道沿いにたてられた」という記述がある。
このことから、大塔が現在の寺町通り寄りにあったことが推測される。
京都は原則として南北の碁盤の目状に道が配されています。寺町通りも今出川通りまでは南北に伸びています。しかし、今出川通り以北は鴨川の影響で北西に傾きはじめます。相国寺塔供養記の東門付近の道筋は、現在の寺町通り付近にあったものと推測されます。
【薩戒記】
「塔は、相国寺の敷地の外にあり、富小路通の東、毘沙門堂の南にある」
室町時代の富小路は、現在の麩屋町・塔之段通りに相当し、毘沙門堂は現・毘沙門横町に相当する。なので、大塔推定地は次の図のようになる。
◇高低差
基壇は大規模だったので、現在でも微高地として残っているはず!!
10tトラック×300台分以上の盛り土が簡単になくなるはずがない!!
そこで、上塔ノ段町付近をカシミールで5cmおきに高低差表示する。
しかし・・・
目立って高い場所はみつからなかった・・・
高低差を強調して表示するとやや他の場所よりも浮き上がって見える部分がある。
この辺が怪しい??
しかも周辺は少し低くなっている。
周辺の土を使って基壇をつくったに違いない(妄想)。
↓ 結論としては・・・
総合的に以下の部分に大塔があったと無理やり結論づけました(泣)
以下が現地の写真。
少し高低差があるが、やっぱりびみょー。
結局、相国寺大塔は幻のままでした。
東大寺・西塔跡には瓦の破片が散乱していますし、日本史上最大の仏塔だった相国寺大塔跡からも瓦片が出てくるはず!!真相は発掘調査までお預けです。
【追記】
もし、相国寺七重大塔が現存していたら…
出雲路橋から見たら、こんな感じかな。もう少し高いかも…
※七重塔についての新発見
これまで七重塔の存在は文献から知られていましたが、物証も新たに発見されました。
まぼろしの相国寺七重塔を復元する
-金閣寺における九輪断片の発見によせて-
http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/336-2.pdf
【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて③
件の大塔はどこにあったのでしょうか??
そして、今でも痕跡は残っているのでしょうか???
場所をさぐる前に、七重塔の規模を推測してみませう。
◇中古京師内外図
中古京師内外図によれば、
109m×109mの敷地に七重塔が立っていたとのこと。
しかし、この地図は室町時代の京都の地図を江戸時代に作成したものなので
信頼性にやや欠ける。
◇東大寺・東西塔
そこで、相国寺大塔に次ぐ規模の仏塔の発掘結果を参考にします。
相国寺大塔に次ぐ規模の仏塔といえば、東大寺七重塔(西塔・東塔)でしょう。
文献などから高さは70m以上あったそうで、東大寺に今でも基壇が残されています。
基壇の一辺の長さが約25m、高さが2m前後です。
(東大寺・西塔基壇跡)
東大寺の基壇の大きさから
相国寺大塔は、少なく見積もっても
・基壇の一辺の長さ:30m以上
・基壇の高さ:2m以上
・回廊を含めた敷地の一辺の長さ:60m以上
あったのではないでしょうか。
(東大寺七重塔・復元模型)
次回は、
大塔が立っていた場所について探っていきたいと思います。
【追記】
◇礎石について
大規模な建造物を建造する場合には、柱の土台として礎石が敷かれます。
そうしないと掘立柱になってしまい、せっかく立派な建物を建てても柱が根元から腐って長持ちしません。しかし、五重塔・大極殿クラスの建造に使われる礎石になると巨大です。東大寺西塔基壇跡には、基石が抜き取られた跡が凹みとして残っています。凹みは埋まりやすいにも関わらず、700年以上たつのに凹みとして残っていることは驚きで、礎石の大きさを物語っています。重機がない当時、巨石を加工し、都まで運搬するのには多大な労力がかかるので、非常に高価なものとして扱われていたはずです。
(今の労働価値に換算すると恐ろしい額になりそう…)
東大寺西塔跡には、礎石の一部が残されています。あまりに大きいので楔で割って他の用途に流用されたようです。
(礎石の残骸、これでも大人二人は座れます。)
相国寺大塔の礎石も倒壊後に他の用途に流用されたはずです。高価な礎石を放っておくはずがありません。
室町幕府の次の権力者が流用していて、
今でも現役でがんばっているかもしれませんね。
【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて②
相国寺大塔に関する資料をまとめると(てきとーな現代語訳)…
【大日本史料】
・1392年11月1日 相国寺大塔の基礎を定めたよ
↓
【相国考記】
・1393年6月24日 柱をたてたよ
↓
【大日本資料】
・1399年9月15日 大塔ついに完成。
・義満、1000名の僧侶をひきつれて完成式典を主催
・塔上から花をまいたり、舞を奉納したりと盛大な式典を行う。
※たぶん、義満は、どや顔だったと思う
【翰林葫蘆集】
・著者は、相国寺の僧侶・景徐周麟
・塔の高さは109m
【南方紀伝】
・著者不詳
・塔の高さは109m
【翰林五鳳集】
・著者は、相国寺で当時一番えらかった僧侶・瑞渓周鳳
・塔にのぼった周鳳さんは感動のあまり一句読む。
塔上晩望
七級浮図洛北東 登臨縹渺歩晴空
相輪一半斜陽影 人語鈴声湧晩風
↓ 現代語訳
「塔は京都の北東に立っている。塔に上ると蒼天を歩いてるようだ。夕日をあびた
塔の先端がはるか下に影を落としている。地上の人の声や鈴の音が風に乗って湧き上がってくる」
※臨場感たっぷりの句ですね。 えらい人しか登れなかったのでしょうか?
鈴の音とは塔の軒先につるしていた風鐸の音でしょうか。
(「並びたつ大塔」奈良市埋蔵物調査センター編より)
(京都タワーからの眺望)
↓
【大日本史料】
・1403年6月3日 雷が落ち、焼失
※そりゃー落ちるよね。
↓
【大日本史料】
・1404年4月3日 義満、懲りずに金閣寺付近に七重の塔を建てる儀式を行う
※また焼けそうな予感が・・・
↓
【看聞御記】
・1416年1月9日 午後8時ごろ3度落雷・焼失。
※やっぱり・・・
・塔が炎上する少し前、日が暮れた後、塔の上を僧侶と女官がうろついていたと目撃談あり。天狗の仕業だろう。
※月齢計算すると新月に近い。暗闇に何かが動いたら妖の類と思ってしまうでしょうね。天狗の仕業と考えたのは、天狗が仏法に背く妖怪でまた飛ぶことのできたからでしょう。
【康冨記】
・義持が、相国寺内に塔の再建を指示。
※ここまでくると執念を感じます。
↓
【経覚私要鈔】
・1470年10月3日 夜10頃、塔の5重目に落雷・焼失。
【相国寺前住籍】
・火は明け方まで消えず、多くの野次馬が見物
【応仁記】
・櫓番衆(警備員)が、焼失まえに猿のようなものが塔に火をつけるのを見た。
※この時も月齢が新月に近い。当日は真っ暗闇だったはずです。
暗闇で100mもある塔が燃える光景は、恐ろしくも美しかったでしょう。
(上野消防署ホームページより「谷中五重塔炎上」)
当時の人々がどのような気持ちでこの大塔を仰ぎ見ていたのか、それを直接示す資料はありませんが、早島氏は著書の「室町幕府論」の中でいかのように書かれています。
・昼間の大塔は、義満の権威を象徴するものであった。しかし、夜になると、大塔は暗転して見えにくくなる。そのかわりに、京の人々は大塔の上に、天狗や妖をみて恐怖していた。・・・巨大建造物は、昼と夜、それぞれ異なる意味で当時の人々を威圧していたのである。
・(一連の)怪異譚以上に異様に思えるのは、応仁の乱の勃発で相国寺のほとんどが焼けてしまったにもかかわらず、この大塔だけがぽつんと焼け残っていた事実である。あたりが一面が焼け野原のなか、大塔だけが残されているという光景。その姿は、戦争で灰燼に帰した花の都の荒廃感を一層際立たせたにちがいない」
大塔は御所を見下ろし、室町幕府の権威を示すシンボルだあったが、皮肉なことに衰退のシンボルともなった。
(出雲大社・戦艦大和・スカイツリーと同様、実用性を度外視した日本人の高さ・大きさに対する信仰のようなものを感じます。)
なぜ、幕府がここまで大塔にこだわたのか、莫大な費用はどのように賄ったのかは、前述の「室町幕府論」に詳しい。室町時代のイメージが変わります。
次回以降は、この大塔がどこにあったのか。痕跡は残っていないか。を書いてみたいと思います。
【相国寺・七重塔】 幻の大塔を求めて①
京都の仏塔といえば…
まず、東寺の五重の塔、八坂の五重の塔が思い浮かびますよね。
でも。。。
かつて、京都には、とんでもない高さの七重の塔があったのです!!
その名は。「相国寺大塔」。室町時代に立っていて今はもう存在しません。
どれくらいの高さだったかというと・・・
京都駅の南にたっている東寺の五重の塔が、55メートル
(ちなみに日本で一番高い仏塔です)
一方
相国寺大塔は109メートル!!
東寺の五重の塔の2倍
京都駅の北に立っている京都タワーに匹敵する高さ。
室町時代の1・2階建て中心の街並みに京都タワークラスの建造物が立っていたんです。
まさに神をも恐れぬ京都版バベルの塔。
※写真はイメージです。実物と異なる場合がございます。
洛中洛外図屏風は、この塔からの眺めを描いているという説があるくらいです。
これだけの規模の建造物でありながら、存在した期間が
わずか十数年ということで往時を伝える資料も僅少です。
次回は、
わずかに残る相国寺大塔の資料を紹介したいとおもいます。