京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑥

 

 京都の出雲族

 

奈良時代の住民台帳

 

京都にも出雲族がいたのでしょうか??

 

この問いの答えは、

 

正倉院に保管されている書物にありました。

 

ナイス!!正倉院!!

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳という

 

税金を徴収するための住民台帳です。

 

726年の京都の出雲郷にいた住人、

 

つまり、出雲族の名前が記録されてい

 

そこには300人以上出雲族の名前が記されている。

 

これほど多くの出雲族が住んだ記録はなく、

 

山背が出雲族大規模な植民地だったことが分かります。

 

◇京都の出雲族の居住地

 

では、京都のどのあたりに住んでいたのでしょうか??

 

台帳には、雲上里雲下里に分かれていることから、

 

拠点が2箇所に分かれていたことが分かる。

 

そして、江戸時代中期の「山城名勝誌」によれば、

 

出雲寺という出雲族の氏寺があり、

 

上出雲寺と「下出雲寺に分かれていたという。

 

雲上里と雲下里のそれぞれの氏寺であったと思われる。

 

さらに、「相国寺の北西に出雲寺がある」と書かれている。

 

上御霊神社から出雲寺のものとみられる瓦が出土し、

 

また周辺から製鉄の痕跡集落跡が発見されていことから

 

上出雲寺は今の上御霊神社付近にあったと思われる。

 

上御霊神社付近の発掘の成果

www.sankei.com

上京区 史蹟と文化 古代出雲郷の発掘調査】

http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000083/83714/No.30.pdf

 

 

そして、上御霊神社の東の賀茂川沿いに「出雲路」があり、

 

上御霊神社の北にある大谷大学付近からも集落跡が見つかっている。

 

森浩一氏は、

 

下出雲寺と雲下里は、雲上里より南にあり、

 

出雲路幸神社」が雲上里と雲下里の境界にあたっていたのではないかと推測する。

 

(角川の地名辞典によれば、賀茂川を挟んで西を雲上里、東を雲下里としていますが、いわゆる「鴨川付け替え説」を前提にしているので旗色が悪そうだ。平安京の北限は一条通りである。京都の地形上、もう少し北に北限を設定することができたが、一条通りを北限としたのは一条通りが遷都以前から東西を結ぶ主要道として存在していたからとされる(平凡社京都市の地名」参照)。個人的には、一条通りが出雲族の集落を南北に分断し、通りの北を雲上里、南を雲下里として棲み分けをしていたのではないかと想像する。)

 

出雲路幸神社」は道祖神で、

 

道祖神は交通の要衝や村の境界におかれることが多いからだ。

 

古来、災いは道を通じて入ってくると信じられていたため、

 

悪霊が入ってくることを「さえ」ぎるために、

 

集落の境界に石を置いて「塞(さえ)の神」をとして祀った。

 

古事記

 

イザナギが死の世界からゾンビに追われて逃げ帰るときに

 

大岩で道を遮って追っ手からのがれる場面が描かれている。

 

大岩が現世と黄泉の国を分断するのですが、これも塞の神と同じ発想です。

 

出雲路幸神社」の「幸(さい)」は、もともとは「塞」であっただろう。

 

しかし、縁起のいい漢字にあて直したのだ。

 

「祝(ほまれ)山」や「祝野(ほうその)」という地名があるが、

 

もとは「屠(ほふり)」つまり、「死体をすてる」を意味していたが、

 

縁起がわるいので「祝」という文字を当てたりします。それと同じです。

 

塞の神」は、町の境界・道の分岐点におかれることから、

 

旅の安全を祈願する「道祖神信仰」(道案内のサルタヒコ信仰)と融合し、

 

サルタヒコアメノウズメの男女一対の祭祀形態を経て、

 

性愛的な要素が加わります。

 

ちなみに「出雲路幸神社」の「石神」は「・・・」の形です。

 

話がそれました・・・話をもとに戻します。

 

山州名跡志」には、

 

下出雲寺は、下御霊神社にあったとする。

 

昔の下御霊神社は「京極の東、一条の北」にあったとするので、

 

雲下里は、現在の京極小学校付近を拠点としていたのだろう。

 

以上の話をまとめると、

 

「雲上里」は、大谷大学から同志社大学までの加茂川右岸に広がり

 

「雲下里」は、同志社大学の南・京極小学校付近にあったと思われる。

 

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 (中古京師内外地図 相国寺・現同志社大学の北に「上出雲寺」の表記が見える。)

 

しかし・・・

 

出雲族の居住地は、もう少し広範囲に住んでいた可能性がある。

 

というのは・・・

 

下鴨神社の摂社には「出雲井於神社」があり、

 

さらに、

 

下鴨神社の東側を流れる高野川を渡ってやや上流にさかのぼると

 

出雲高野神社」があるからだ。

 

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 ※京都一怖いと噂される?崇道神社・敷地内に出雲高野神社がある。写真右の社が出雲高野神社です。小さっ!!崇道神社だけでなくこちらにも注目してほしい。

 

出雲井於神社はの祭神は、スサノオ出雲族の始祖である。

 

また、出雲高野神社の祭神は不明であるものの、

 

出雲高野神社の近くに「伊多太(いたた)神社という出雲系の神社がある。

 

祭神は、伊多太大神という記紀にでてこない謎の神様。

 

上高野で独自に生まれた神様であり、

 

上高野付近で最古の神社といわれるのも頷ける。

 

「いたた」は出雲系神社の神事・「湯立て」神事、

 

または「たたら製鉄」にも通ずるとのことだ。

 

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 ※伊多太神社。こちらも崇道神社の境内にある。

 

上高野周辺にも出雲族が進出していた可能性がたかい。

 

そうすると・・・

 

古代山背では、

 

鴨川の西岸一体・下鴨一体・高野川にそって上高野付近まで

 

と非常に広範囲に渡って出雲族勢力が及んでいた可能性がある。

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

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出雲族が住んだ場所は、いずれも水辺に近い。

 

洪水などのリスクをとっても、水辺に住んだ理由は何だろうか? 

 

単純に考えると

 

出雲族が進出した頃、

 

 

稲作技術をもたない縄文人が北白川などの微高地に住んでいて、

 

川沿いにしか住む場所が無かったうえ、稲作技術をもつ出雲族にとっても都合が良かったのだろう。

 

それに加え宗教的意味もあったかもしれない。

 

出雲族と水」には切っても切れない何かがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→蛇→龍神→水」妄想が膨みます。

 

 

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※松ヶ崎橋より。高野川水系沿いに出雲族の痕跡が残る

 

また、偶然だろうか、

 

出雲族の神社は、御霊会にかかわっている。

(崇道神社(出雲高野神社の本社)・上御霊神社下御霊神社)

 

出雲族と御霊・怨霊」にも何か繋がりがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→崇神→怨霊」これまた妄想が膨らむ。

 

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 ※崇道神社境内・森の中の長い参道奥に崇道天皇(早良親王)の怨霊が鎮座する。

 

今後の宿題です。

 

出雲族が居住を始めた時期

 

いつごろ出雲族は京都に進出したのでしょう?

 

ヒントになるのが、「出雲井於神社」と「山城国風土記逸文」だ。

 

山城国風土記逸文」によれば・・・

 

賀茂氏の始祖、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)は、

 

大和の葛城から山城の下鴨の地にやって来た。

 

娘のタマヨリヒメは下鴨の川から流れてきた矢を拾い、それがきっかけで

 

賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト以下「ワケイカヅチ」)を身ごもった。

 

としています。

 

これは・・

 

大和葛城に住んでいた賀茂氏の先祖が、京都の下鴨に移動してきたことを意味します。

 

おそらく、いい農地を探して移動してきたのでしょう。

 

治水・灌漑技術の乏しい古代において、日照りが続くと作物がダメになってしました。

 

古代人は、天からの恵みの雨をひたすら待つしかなく、

 

雷は、雨の前兆としてありがたい存在でした。

 

賀茂族の神は「賀茂別雷命」ですが、

 

」を祀る賀茂氏は、農耕部族と考えられます。

 

北野神社のある北野は賀茂氏の領地になりますが、

 

北野神社の菅原道真は「雷神」です。北野神社ではをお祭りしていますが、

 

これは雨ごいの際の生贄の儀式に由来します。

 

※藤沢駒次郎「京のくらしと出来事」参照

 

農民にとって一番大切な牛をささげることで雨の恵みを願ったのです

(野蛮な習俗ということで朝廷によって度々禁止令がでました)。

 

賀茂氏と農業」のつながりを感じさせます。

 

殺牛農耕祭祀

 豊作を祈願して牛を殺す文化は、渡来系種族がもたらしたといわれる。

 殺牛祭祀の風習を持つ渡来人と葛城鴨氏との関連性を指摘されている。

 (平林章仁「謎の古代豪族 葛城氏」参照)

 

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

 

 

 

 

また、玉依姫の妊娠の話は、

 

下鴨付近に住んでいた「土着勢力賀茂氏との結合」を意味している思われます。

 

土着勢力はおそらく、出雲族です。

 

川辺にいる娘を妊娠させる犯人は、出雲族の神様と相場が決まっています。

 

出雲井於神社は、別名「柊社」といい、開き神=開拓神を意味しています。

※「京都市の地名」(平凡社)参照

 

また、

 

延喜式神名帳」には、

 

本社の下鴨神社より前に出雲井於神社が記載されていますが、

 

摂社が本社よりも前にに記載される例はほぼありません。

 

このことは、

 

出雲井於神社が下鴨神社ができる前から出雲族によって祀られていて

 

その後、賀茂氏が土着の出雲氏と血縁関係を結び下鴨神社を祀ったといえる。

 ※林屋氏の説を参照

京都 (岩波新書)

京都 (岩波新書)

 

 

※一方、門脇氏は、賀茂氏の北上説に疑問を呈している。

 

京の鴨川と橋―その歴史と生活

京の鴨川と橋―その歴史と生活

 

 

そして、

 

賀茂氏葵祭は544年に始められたという記録がある。

 

そうすると・・・

 

出雲族は、544年よりも前から山城で活動していることになる。

 

また・・・

 

出雲高野神社のある高野では、

 

はじめ出雲族が居住していたが、

 

後から近江から小野氏(小野妹子で有名な一族)が進出してくる。

 

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小野毛人墓誌(崇道神社蔵、国宝)高野出雲神社のすぐそばの崇道神社から小野妹子の孫・小野毛人の墓標が見つかり、国宝に指定されています。

 

小野氏が勢力を拡大するのはC・7C

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

出雲氏はどんなに遅くとも6C・7Cには山背で活動していたのだ。

 

そして・・・

 

出雲井於神社は、井戸を祀る神様(もとは水源を祀っていたと思われる)

 

このような祭祀形態は珍しく、原始宗教としての性格が強いこと

 

下鴨からは弥生の集落跡が見つかっていることなどから

 

出雲族弥生時代ごろには山背に住みついていた可能性がある。

 

出雲族は、賀茂氏・小野氏が京都に進出するずっと前から山背に住んでいた。

 

山背の国の開拓者といえるでしょう

 

今回は、京都の出雲族の活動範囲と住み始めた時期を探ってみました。

 

次回は、京都の一大勢力出雲族

 

どこから来たのか?

 

そして、

 

どのように発展していったのか?

 

を追ってみたい。

 

※参考文献

・「京都市の地名」(平凡社

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

 

 

・森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北・山科)」(学生社)

 

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

 

 

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑤

記紀の中の出雲(神武東遷以降)

 

 国譲り後の記紀を見ていきませう。

 

天孫降臨ー神話から歴史へ

 

アマテラスは地上界にニニギを派遣します。ニニギは九州に天孫降臨

降臨以前が神話の世界で、降臨以降が人間界の話,つまり歴史になります。

天孫族に寿命ができた逸話(コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの話)を挟み込んでいることからも明らかです。

 

ここで、

 

なぜ国譲りを受けたアマテラスの子孫が、大和でも出雲でもなく、

遠くはなれた日向に降り立ったのか?

 

大きな疑問が生じます。

 

しかも、

 

この後、ニニギの孫のイワレヒコ(神武)が東遷して大和に入るのですが

土着勢力に大きな抵抗を受けます。

 

これでは何のための国譲りだったのかと思います。

 

グリーン席を予約していたのに、自由席に座らされ、

グリーン車両に移動しようとすると車掌に制止させられるみたいな話です。

なんのための予約か!!(怒)

 

謎です。

 

ひとつの考え方として、

 

国譲りは神々の契約であり、人間界は関係のないかもしれません。

ただ、まったく関係ないかというとそうではなく、

神々の働きにより、いずれ人間界にも神々の契約通りの世界が成立する。

現に地上に降り立った天孫族はピンチになると神に助けられている

記紀大和朝廷の正当性を明らかにすることが目的です。

天孫族による旧勢力の駆逐を神々の契約が正当化するという見立てでしょうか。

 

とはいえ、出雲神話天孫降臨の接続の悪さは否めない。

 

◇神武東遷

 

九州を出発したイワレヒコは、大和までは順調に歩を進めますが、

大和の陸軍大将ナガスネヒコにまさかの敗北。

イワレヒコの兄は、この戦の傷が原因で死んでしまう。

(記紀では、なぜか兄が不遇な目にあう。海彦・山彦も。かつては末子相続だったのでしょう。ちなみに騎馬民族は伝統として末子相続が多い。ヘロドトス「歴史」のスキタイの記述(エキドナの末っ子)やチンギスハンの相続を参照)

「こんな蛮族に矢の当たって死ぬのか」と叫んで息絶えます。

気位は高いのですが、本当にアマテラスの末裔かと思うほどに弱い!!

そこで、タケミカヅチ(寄生獣のような最強の武神)に助けてもらいながら、

大和を裏から急襲するも、またもや失敗。

どうしようもないので、敵方の総大将ニギハヤヒを懐柔し、

ナガスネヒコを暗殺させて辛くも勝ちを奪い取る。

 

イワレヒコの弱小っぷりが光るお話です。

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※こんなにはカッコよくなかった神武東遷 wikipediaより

 

一方、ナガスネヒコはナイスガイですねっ!。戦っては負けなし!!

戦いの最中、休戦協定が持ちかけられるが、

「私の主君はニギハヤヒのみ。二君に仕えない!!」

と休戦協定を突っぱねるのです。

しかし、主君ニギハヤヒに裏切られ殺害される。

悲劇の「侍」ナガスネヒコ(涙)。

 

ところで、漢、ナガスネヒコは何者なのか??

 

反逆者なので、記紀には出自についての記述がない(隠したのか??)。

お手上げです。

数少ない手掛かりがその名前。

このナガスネヒコは、縄文系の民族を意味しているという説がある。

渡来系民族は、北方で進化を遂げた民族なので、胴長短足という身体的特徴をもつ。寒冷地では体温を維持するために手足が短くなるのである(アレンの法則)。

一方、縄文系の民族は、温暖な南方出身なので長い手足が特徴だ。

天孫族に代表される渡来系民族は、長い手足の民族をさげすんだ。

縄文系の民族の多い、東北の民族をエビスと呼んで蔑視した。

手足の長いエビ・カニになぞらえたようだ。

現代の価値観とは真逆なのが面白いですね。

ナガスネヒコは「長い脛の人間」、つまりエビスです。

縄文系の民族だったのかもしれません。

出雲神話テナヅチアシナヅチ(手が長い・足が長い)という夫婦も縄文系か??)

あるいは、逆賊ということで後世に蝦夷・エビスを連想させる名前をつけられたのかもしれない。

いずれにせよ。よー分からんです。

 

さらに厄介なのが裏切者のニギハヤヒだ。

 

古事記によると、ニニギの前に大和に降臨し、

しかもイワレヒコと同様、天孫族だったというのだ。

いかにも、とってつけたような話だ。

 

例えるなら・・・

桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治にいったら、桃次郎が既に鬼退治をしていて、

鬼と仲良く暮らしていたということです。

桃太郎の英雄譚に桃次郎はいりません!!

 

それでも桃次郎の話を組み込んだ裏には「大人の事情」がありそうです。

 

「大人の事情」とは??

 

ニギハヤヒは「先代旧事本紀」によれば物部氏の祖、丹後の籠神社に伝わる国宝の家系図、「海部氏系図」「勘注系図」によれば、海部氏の祖となる。

いずれの古書にも天磐船伝承が記されているので、始祖伝承を共有する海部氏と物部氏は同族と考えていい。

つまり、ニギハヤヒは物部・海部氏の共通の始祖。

 

そして、「海部氏系図」の中のニギハヤヒの嫁の系譜には、オオクニヌシ、ムナカタと日本海文化圏の神様がくっついている。海部は日本海の民だから不自然な話ではない。

海部の拠点の丹後は日本海への出入口として戦略的に重要です。

(さらに海部と東海尾張とはつながりが強く、海部は日本海から東海までの勢力であったと思われる。1つの傍証として、丹後の文化・方言と尾張の文化・方言が酷似するそうだ(参考「丹後・東海地方のことばと文化」京丹後市教育委員会)。

 

また、物部氏の編纂した「先代旧事本紀」によれば、

矢田坐久志玉比古神社が、ニニギが天から降り立った場所とされているが、

この神社には網掛祭という祭りがある。

祭りでは、雄の竜と雌の竜に見立てたしめ縄を神域にめぐらせる。

これは、出雲地方の神社の龍神・蛇神信仰にそっくりなのだそうです。

それから、オオモノヌシは、しばしば蛇の姿で記紀に登場します。

出雲と蛇は、密接な関係があるのです。

※出雲の龍蛇信仰は、新谷尚紀「伊勢神宮三種の神器」(講談社メチエ)に詳しい。

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社選書メチエ)

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社選書メチエ)

 

 

ニギハヤヒ(物部・海部氏)は、

もともとは日本海文化圏の出雲系の部族だった可能性が高い。

※参照:村井康彦氏の「出雲と大和」・千田稔「手向山と邪馬台国アメノヒボコ」・『古代ヤマトと三輪山の神』

 

古代ヤマトと三輪山の神

古代ヤマトと三輪山の神

 
出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

 

これらの話から推論すると・・・

 

ニギハヤヒは、大和に住む出雲系の抵抗勢力だった。

流れ者の天孫族にとって大和支配・さらに日本海・東海地方進出の足掛かりのために、

どうしてもニギハヤヒの協力が必要だった。

そこで、ニギハヤヒ天孫族と同じポジションを与え、対等の関係を築いたように思われる。

 

これが「大人の事情」の真相だ!?

 

とはいっても、この辺の分析はシロートのオイラには手に負えません。

 

物部氏は何者か?」という古代史上屈指の超難問にもかかわるからです。

※この辺の推理は、関裕二「物部氏の正体」(新潮文庫)で。

物部氏の正体 (新潮文庫)

物部氏の正体 (新潮文庫)

 

大和には複数の抵抗勢力があったが、その一部の土着勢力と天孫族対等合併して、大和支配の礎にしたという理解で置いておきます。

 

大和朝廷の誕生】

ナガスネヒコとの戦に勝利したイワレヒコは神武天皇として即位し、

ここに大和政権が誕生する。

 

考古学的には倭の大乱が終結する時期だ。

 

瀬戸内海を中心に倭の大乱が始まる。その中で中規模の勢力が誕生し、九州から東海まで連なる瀬戸内海ネットワークが構築されていく。

同時期の遺跡の纏向遺跡からは、瀬戸内海、東海など各地で生産された遺物が発見されるが、これは他の同時代の遺跡にはみられない特徴。そして、吉備地方からもたらされた土器が抜きん出て多い。

 

つまり・・・

 

大和朝廷は、三輪山山麓の纏向に都をおき、

瀬戸内海・東海ネットワークの盟主になったということです。

(おそらくは天孫族は吉備からの一派であっただろう。)

 

記紀にもそれを裏付ける記述があります。

 

即位した神武天皇が初めに行ったのがイケヨリヒメとの結婚です。

このイケヨリヒメは、三輪山のオオモノヌシを父にもつ。

大和政権は三輪山の出雲勢力をとりこみ三輪山麓を拠点にしたことを意味しています。

 

ちなみにイケヨリヒメは別の名をヒメタタライスケヨリヒメ。

たたら製鉄と関連する名前です。出雲はたたら製鉄のメッカ。

イケヨリヒメは出雲族サラブレッドです。

 

その後も大和政権は三輪山のオオモノヌシとの関係を重視しました。

 

大和朝廷は、天孫族最強のシャーマン・モモソヒメにオオモノヌシを祭らせます。

なんでも、オオモノヌシが機嫌を損ねると人々がバタバタ死んでいく。

オオモノヌシは「祟り神」の親玉みたいな神様ですから。

 

さらにモモソヒメはオオモノヌシと結婚します。

人と神との結婚です。最強のシャーマンだからできた離れ業です。

しかし、その後オオモノヌシとの関係が悪化し、モモソヒメはその責任をとって自殺します。自ら生贄となったと思われます。

記紀には神の怒りを鎮めるために命を差し出す,

いわゆる生贄・人身御供を思わせる記述がちらほらみられます。

 

天孫族はアマテラスの子孫なのに、なぜ国津神のオオモノヌシを祭り上げるのか??

 

これもまた大きな謎です。

 

おそらくは、大和には日本海文化圏のオオモノヌシ信仰が根強くあり、

大和の各部族をまとめ上げる必要性から、

天孫族はもともとは三輪山のオオモノヌシを主神としていたのでしょう。

 

四道将軍の派遣】

 

小勢力として大和に入ってきた天孫族ですが、

オオモノヌシを祭ることで大和の盟主として成長します。

 

そして、四道将軍の派遣により、吉備、丹波、北陸、東海、出雲を平定する。

将軍の1人キビツヒコの吉備地方への遠征は有名で、桃太郎伝説のモデルになりました。

 

この時点でようやく地上界が、神々の契約と同じ姿になりました。

名実ともに国譲りが完成します。

 

四道将軍の話は、大和朝廷が瀬戸内海ネットワークを支配して急速に勢力を拡大していく考古学的事実と符合します。

 

以上が天孫降臨から四道将軍派遣までの粗筋。

 

 

◇二系統の神話体系

 

記紀には、

出雲族の活躍を描いた後に国譲りの話がでてきたり、

アマテラスの子孫がオオモノヌシを祭ったりと、

木に竹を接ぐような部分が見られます。

異質なものを無理やりつなげている印象です。

 

不自然な記述になった理由ですが、

 

大和には日本海文化圏のオオモノヌシ信仰が根強くあり、当初は天孫族もそれをいただいていたが、王権の伸長に伴い自らの正当性を主張する必要から、アマテラスを主神に入れ替え、後からスサノオの追放や国譲りの話を追加したように思われる。

 

記紀というのは、

出雲族系の神話体系」を「天孫族系の神話体系」で

上書き保存したといっていいのではないでしょうか。

 

歴史的には、

日本海ネットワーク」から「瀬戸内海ネットワーク」への

勢力の移行を意味しているようです。

 

4回にわたって、出雲族一般についてみてきました。

 

次回からは、本題の「京都と出雲族」の関係について書いてみたいと思います。

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して④

記紀の中の出雲族(出雲神話)

 

記紀歴史学的価値

 記紀は戦前の皇国史観のアレルギー反応から歴史と結びつけることがタブー視されてきました。また、出雲を低くみる傾向があり、出雲神話は完全なフィクションとみるのが大勢でした。しかし、時間の経過とともにアレルギー反応は鎮静化していますし、出雲族に関する考古学上の歴史的発見が相次ぎ、出雲神話にも歴史の真実があるのではないかという考え方が広がりつつある状況です。

記紀の目的は大和朝廷の統治の正当性を明らかにすることがですが、粗筋を見るだけでも、大和朝廷にとって不利な記述も含まれています。

それは、記紀を編纂される段階で当時の人々の記憶に残っている歴史を無視しえなかったからだ。大和朝廷にだけ都合のいい事実を書き連ね、現実とかい離したストーリーを作ると「嘘ばっかり!!」とそっぽを向かれ、記紀編纂の目的が達成できなかったからでしょう。

編纂当時の権力構造(大王家・物部氏藤原氏)を考慮に入れる必要はありますが、大和朝廷にとって都合の悪い記述であったり、考古学的事実等と符合する記述は大筋で認めていくのがいいではないか。

 

能書きは、これくらいで記紀の粗筋追ってみます。

 

◇国生みからスサノオ追放まで

 

【国生み】

イザナギイザナミが国生みを行う。

    ↓

イザナミが出産時に死亡

    ↓

・黄泉の世界でイザナギイザナミが夫婦喧嘩

    ↓

イザナギが命からがら黄泉の国から帰り、単体生殖で三貴神を生む。

 三貴神とは、①アマテラス、②ツクヨ、③スサノオ

    ↓

・アマテラスは天上界、ツクヨは夜の世界(あやしげな響き)、スサノオは海の世界の統治を命じられる。

 しかし、スサノオは、死んだイザナミが恋しくて泣いてばかりで仕事をせず、

すったもんだで地上の世界に追放される。

 

記紀の話は荒唐無稽な話が続きます。

 

「へー、そーなんだー(棒読み)」という感じですが、

特に古事記には、古代日本人の精神性が見え隠れするので荒唐無稽な部分も重要です。以上の話の中にもすでに重要な概念が隠れています。

 

まず、世界が、「天上界→地上界→黄泉の国」の垂直方向で構成されていること。

 

そして、スサノオが天上界から追放されることで、

「天上界→地上界の序列」が明確になりました。

天上界出身の神様(天津族)と地上界出身の神様(国津神)もこの序列に従います。

基本的には、天津族が大和朝廷側、国津神が征服される土着の神様という構造です。

 

 ちなみに夜の国のツクヨは放置プレイです。話に出てきません。

3項対立と見せかけて天上と地上の2項対立に落ち着く。

伏線を張っておいて回収しないという話が記紀には結構あります。

河合隼雄氏は、これを日本人の精神の中空構造と呼んでいます。

 

 また、スサノオが天上界で犯した悪事として

 

「機織りをしている女神に向って、皮を剥いだ馬を投げつけ、

驚いた女神が尻もちをついたところ、ホトに機織りの器具が突き刺さって

死んだ」

 

という突拍子もない話がありますが、

 

これに似た神話(女神を犯す馬の話)が

北欧神話ギリシャ神話・古代インドのヴェーダの儀式(馬犠牲祭)に見られるので、

インド・ヨーロッパ語族系の北方騎馬民族から

この話が日本に伝ったことが想定されます。

 

思想伝播を知る上でも神話は重要なのです!

 

※詳しくは↓ 

マハーバーラタの神話学

マハーバーラタの神話学

 

出雲神話

スサノオが追放された地上の国の出雲でヤマタノオロチを退治し、

めでたくクシナダヒメと結ばれ、幸せな生活を送ったとさ。

    ↓

スサノオの6代後のオオクニヌシが出雲の国(地上界)をほぼ統一。

    オオクニヌシは国造りの際に、自分の分身のオオモノヌシに協力を仰いでいる。

 オオモノヌシは条件として三輪山に自分を祭るように要求した。

    ↓

・天上からこの様子をみていたアマテラス。地上界も天孫族が統治すべきといいだす。

 アマテラスはタケミカズチを派遣して国譲りを迫る。このタケミカヅチは手を剣に変形できるなど戦闘力が桁外れ(「寄生獣」みたい)。オオクニヌシは、国譲りはやむなしと考えるが、息子二人に相談してから結論を出すと回答を保留する。一人の息子のコトシロヌシは「いいんじゃね」と腑抜けた答え。一方、もう一人のタケミナカタは好戦的で「ざけんな」とタケミカヅチと一戦交えるが、タケミナカタの完敗。しまいには諏訪まで敗走する始末。もはやここまでとオオクニヌシは国譲りを承諾するのであった。

かわいそうなオオクニヌシ

 

以上が国生み~国譲りまでの粗筋。

 

古事記出雲神話を記載しているが、正史の日本書紀は大和政権以外の勢力の活躍を良しとしなかったのか出雲神話の記述が少ない。

 

考古学に加え記紀から伺える日本海文化圏の範囲は広大だ。

 

古事記には、オオクニヌシが越(新潟)の国の女性をはじめ様々な地方の女性と関係を持つ話が盛りだくさんで、正妻のスセリヒメが嫉妬するほど。四隅突出型墳丘墓や素環頭鉄刀の出土などから考古学的に出雲と日本海沿岸の地域とはつながりがあったことが認められるが、オオクニヌシの女性遍歴は、出雲族が政略結婚を通じてヒスイ・鉄などの海運ネットワークを確保して勢力を拡大していったのメタファーとみることができる。

 

・また、出雲大社から三本の巨木を束ねた遺構がでてきました。一方、長野の諏訪大社では、四本の巨木を建てるという風習があり、両者は巨木文化でつながっています。諏訪といえばタケミナカが敗走した場所です。出雲から諏訪までは、日本海の海流にのり、糸魚川あるいは千曲川を遡上するとたどり着きます。

諏訪までも日本海文化圏の影響が及んでいた可能性があります。

 

・さらに、安曇族は日本海を転々と移動する海洋民族ですが、活動範囲が出雲族とかさなるので、出雲族と安曇族も密接な関係があったと思われる。

安曇族の拠点は北九州の宗像ですが、古事記では「出雲族の長が北九州に遊びにいって不在にしている」という一節もある。さきほどのタケミナカタの敗走ルート上には、安曇族が住んでいたとされる安曇野がありますし、「ムナカタ」と「タケミナカタ」とは音的に似ており、同一の存在の可能性すらあります.

 

・前回の記事で紹介したように、出雲族中国地方、近畿の奈良盆地にも進出している可能性があります。特に奈良盆地には大三輪山のオオモノヌシだけでなく、葛城のヒトコトヌシなど数多くの出雲の神が祭られていますし、日本海から奈良盆地に至るルート上には、磐座信仰のある出雲系の神社が点在しています。

出雲と大和までは遠いという印象がありますが、丹後・丹波から琵琶湖に入れば、大和までは川伝いでアッという間にたどり着きます。

丹後・丹波~大和までは高速道路ならぬ高速水路が走っていたといってもいいでしょう。(かつて、日本海と琵琶湖を繋いで、日本海から瀬戸内海まで抜けられる運河を作る計画があったそうですよ~)

 

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(三浦佑之「古事記」(NHK出版)を参考に加筆・修正)

 

以上から、日本海文化圏の出雲(United States of IZUMO)は

・東は、新潟・信州

・西は、北九州

・南は、奈良盆地

・北は朝鮮・満州

までの勢力を誇っていた。

 

出雲は倭の中心的存在で、

日本地図を南北をひっくり返して「表日本」と呼ぶにふさわしい存在でした。

 

次回は、神武東遷以降の出雲を見いきます。

 

【参考文献】

三浦佑之「古事記」(NHK出版)

NHK「100分de名著」ブックス 古事記

NHK「100分de名著」ブックス 古事記

 

 *古事記入門におすすめ↓

 

【追記】

◇方言から見る日本海文化圏

 

出雲族は、縄文系の民族と渡来系の民族の融合により誕生したと考えられるが、

基層部分は縄文系の民族である。日本海文化圏は、縄文文化を基調としている。

現在の標準語的な日本語は、アイウエオの5つの母音で構成される。

しかし、縄文時代には、イとエ発音が融合あるいはイとエの中間の母音のある言語を話していた(ズーズー弁・ジージー弁・イとエの区別のない方言に分類される)と思われる。お寿司を「オススェ」と発音するイメージ。

 

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現在の方言の分布図から、北海道・東北・東海・北陸・山陰にかけて、縄文語系列の言葉が話されていたことが分かる(方言周圏論:大和を中心に同心円状に古い言語が残存する)。日本海文化圏も縄文語系列の言語を話してたのです。

 

しかし、大和政権が勢力を伸長する中で大和地方の言語が広がり、古層言語も失われていく。大和政権の官道(北陸道東山道)に沿って、縄文語系列の方言が失われていることからもわかる。

もっとも、出雲や富山の一部、東北の北部は、官道が通過しているにも関わらず方言が失われていない。日本海文化圏のアイデンティティを強く意識していたからでしょうか。

 日本海文化圏といっても均質ではなく、アイデンティティの意識の強さ・構成員の流動性・大和政権の支配に対する受容度に開きがあります。

 

※小泉保「縄文語の発見」参照

縄文語の発見 新装版

縄文語の発見 新装版

 

 

 

核DNA解析でたどる 日本人の源流

核DNA解析でたどる 日本人の源流

 

 ※DNAレベルで出雲と東北の近親性が立証されるそうだ。興味ぶかい話がある。

 

◇女神信仰

 

出雲神話は女性が重要な役割を果たします。

 

オオクニヌシは、傷ついたウサギを助ける心が優しく素直な美青年でした。

そんな性格が災いして、意地の悪い兄弟神からひどい仕打ちを受けていました。

 

しかし、そんなオオクニヌシを女神たちが放っておくはずがありません。

母性本能をくすぐるものがあったのでしょう。

オオクニヌシは何度も兄弟神に惨殺されるのですが、

その度に女神たちによって救い出されます。

また、オオクニヌシが窮地に立たされたとき、女神たちはオオクニヌシを支えます。

女神の力によってオオクニヌシは地上界の王になったといっても過言ではない。

 

オオクニヌシの祖・スサノオは、イザナミが恋しくて泣き続けるマザコンですし、

スサノオは、ムナカタの3姉妹の女神を生み出します。

ムナカタとゆかりの深い丹後では天女の羽衣伝説や

穀物・生産の女神・トヨウケビメの伝説が伝わります。

 

 

特に出雲神話には、女性的・母性的な香りが漂います。

 

南方系の神話には

「女性→出産→生産→大地(地母神)」をメタファーとする話が多いそうです。

北海道の遺跡からは、南方でしか捕れないゴホウラ貝の装飾品が見つかっており、

南方諸島と北海道を繋ぐ日本海ルートの存在も明らかになってきています。

 

出雲神話の古層には南方系(縄文系)の女神信仰があるのかもしれません。

 

※三浦佑之「古事記」(NHK出版)参照

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して③

三輪山のオオモノヌシの謎

 

出雲族リトマス試験紙

 

狭義の出雲、つまり出雲地方の出雲族というのは割合わかりやすい。

 

しかし、出雲族はフロンティアスピリッツにあふれる民族なので、

 

出雲地方を離れて広範囲に活動している。

 

そこで問題になるのが、

 

故地を離れた出雲族出雲族といえるのか?

 

出雲族と判断するリトマス試験紙はなんなのか?

 

という点です。

 

東京に進出した関西の笑い芸能人は、関西人といえるのか?ということです。

 

関東を活動拠点としていても、こてこての関西弁で関西のノリを貫けば

やはり関西人といえるのです。

関西人のアイデンティティを持ち続ければ関西人なのです。

 

同じように

 

故地を離れても部族としてのアイデンティティを守り続ければ出雲族です。

 

出雲族アイデンティティとは何か。

 

氏神という言葉や魏志倭人伝の記述、ユダヤ民族のシオニズム運動のを持ち出すまでもなく、

古代人の中心的なアイデンティティ宗教意識です。

 

故地の出雲族と同じ宗教意識をもっていたかが、重要なリトマス試験紙になる。

 

出雲族の宗教意識

 

<磐座・山体信仰>

 

出雲の荒神谷遺跡は、神名火山の遥拝の地であり、

加茂岩倉遺跡の近くには巨石、岩陰がある。

青銅器が大量に発見された遺跡は、

いずれも磐座・山体信仰との関連性が認められる。

 

古代出雲族は、原始宗教の磐座信仰をしていた可能性が高い。

磐座信仰は原始宗教として全国的に散見されるものだが、

出雲族の痕跡を示すメルクマールの1つだ。

 

大国主命

 

 古事記日本書紀が示す通り、出雲族の主神は、言うまでもなく大国主命

神社に大国主命が祭られていれば、出雲族の拠点があったといえそうだ。

 

◇地名(人名)

 

宗教意識の他に、メルクマールになるのが地名(人名)です。

出雲に由来する地名があれば重要な証拠になる。

異文化・異国の中に放り込まれると郷愁に襲われるし、出身地を自分のアイデンティティとして強く意識してしまいます。

「三笠の山に出し月かも」(涙)

 

住んでいる人の名前に出雲地方の名前があればそれも重要。

 

例をあげると・・・

 

世界遺産で有名な白川郷がありますが、かつて白川郷の一部の住民がダム建設のため立ち退きをさせられたことがあった。住民たちは、補償金をもって東京の渋谷円山町に移り住み、連れ込み宿(ラブホテル)の経営を始めました。ホテルの名前には、白川や川にちなむ名前が多いそうです。

 

・北海道の屯田兵も居住地に出身地の名前を付けていますよね。未開拓の地に出ていくときには、そこには地名がないのだから故地の名前をつけるのは自然な発想。

 

・スペイン南部のコリア・デル・リオには支倉常長の慶弔遣欧使節団の一員の子孫がいて、「ハポン」(スペイン語で日本)と名乗り、侍の末裔として有名なのだそうですよ。

 

エトセトラ、エトセトラ

 

   つまり・・・

 

出雲族が住んでいたかは、

 

磐座進行 ・大国主命 ・地名(人名)

 

からある程度推測できます。

 

三輪山大国主命の謎

 

では、奈良の三輪山の謎について考えませう。

 

3つの観点から、三輪山麓に出雲族が住んでいたか検討すると・・・

 

三輪山には、山頂に磐座があり、山体自体を祭っています。

 

磐座信仰〇

 

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三輪山 wikipediaより

 

ちなみに、

大和を中心に関西では石を恐れる文化が今でも残っています。

昔からある石(土地にめり込んでいる石)を触ったり、移動すると祟りがあるという類の信仰です。信仰の対象になっている石がある場合、道を建設するときでも道を迂回させることも多い。

社や石を避けて迂回している道があれば要チェック!!

地中に埋まっている石は、周辺の石やエネルギーを吸収してどんどん大きくなり、モノ(悪)またカミ(善)の神性を持ち始めるいう発想があるのです。君が代に「さざれ石(小さい石が大量にくっついた石)の巌(大岩)となりて」という一節がありますが、これも古代の石に対する信仰が下敷きになっています。

それから、中世には作庭する職業(石を取り除いたり、運んだりする)は寺社仏閣にかかわる人が携わっているのも興味深い。

「現状変更が加わること=穢れ」

という着想があり、現状変更ができるのは、人間と神との中間地点にいる者だけと考えられた。しかし、後には合理主義の進展に伴い、神聖な部分が希釈され、マイナスイメージだけが残ってしまう訳だが(差別の起源)…

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

 

 

②山麓にある大神神社の祭神は、大物主。

 

大物主は、大国主の「幸魂・希魂」、つまり分身。

 

大国主

 

三輪山麓の西と東に出雲という地区がある。

 

かつては興福寺領で出雲荘と呼ばれていた。

また、古墳時代にはこの地は大和政権の屯倉(直轄の田んぼ)で、

管理者が「意宇(おう)宿祢」という名前。

意宇は東部出雲の中心地の地名です。

 

ということで、地名・人名も〇

 

よって・・・

 

三輪山麓には、出雲族が住んでいた可能性が非常に高い。

 

しかも・・・

 

大神神社の祭祀形態が、原始宗教に近く古墳時代よりも古い可能性がある。

(拝殿だけで山自体をご神体とする寺社はおそらく大神神社宗像神社だけなので

神社では最古のものと考えられる。)

 

そうすると・・・

 

大和政権の成立以前から、出雲族が大和盆地に住み着いていたことになり、

 

大和政権が三輪を出雲族から奪ったという推論が成り立ちます。

 

記紀神武東遷(天孫族が大和に進出して土着の部族を支配下に組み込むプロセス)

 

とリンクしそうです。

 

次回は、考古学的事実に古事記日本書紀の記述を重ね合わせると見えてくる

 

古代出雲族の姿について書いてみたいと思います。

 

参考文献

司馬遼太郎街道をゆく1」(朝日文庫)

街道をゆく (1) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (1) (朝日文芸文庫)

 

 

・村井康彦「出雲と大和」(岩波新書)

 

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

 

 

・森浩一「京都を足元からさぐる(洛北)」(学生社)

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

 

 

 

【追記】

 

蛇信仰・龍蛇信仰と出雲族

 

ある日、小学生のオイラは友人の家の庭先で蛇の子供を追い回して遊んでいた。

木でつついたり、投げたりと本当に小学生は残酷だ。その様子を目撃した友人の母親が鬼神の如き形相でオイラと友人を怒鳴りつけ、ポカリと一発小突かれた。普段はおやつを出してくれる優しい方なのだ。小突かれたことよりも、人間がここまで豹変する事実に驚愕したのだった。カエルをいじめても怒らないのになんで蛇はいけないのか、当時のオイラには分からなかったが、これが蛇信仰によるものと分かったのは随分後のことである。

 

以下、吉野裕子「蛇 日本の蛇信仰」をベースに蛇信仰を紹介します。

 

蛇 (講談社学術文庫)

蛇 (講談社学術文庫)

 

 

 

蛇は、生命力・異形・男性器との類似性・猛毒・移動能力(水上を泳ぐ姿は感動的だ)等の特性から、縄文時代より信仰の対象とされてきた。今でもいろんなところに残っていて、しめ縄は「蛇の交尾」をモチーフにしているし、鏡餅は、「とぐろを巻いた蛇」がモチーフ(かがみの「かが」は、蛇の意味。ヤマカガシっていう蛇いるよね。)

とりわけ、出雲族と蛇の係りは深い。蛇巫という女官が蛇と交わり、蛇の子を出産し、それを信仰の対象とする蛇信仰があるのだが(もちろんそんなことは不可能だから、蛇に見立てた円錐形の山で神おろしをし、巫女の体に宿ってもらうなど他の形に仮託しますよ。葵祭もこれ。また今昔物語集にも蛇と女との交接の話が多く登場している。)、記紀では大三輪山オオモノヌシは蛇とされており、オオモノヌシと人間の女が交わることで神性の強い子供を授かるという話がある。また、出雲の神社では海岸に漂着したセグロウミヘビをご神体として祀る風習がある。

蛇信仰・龍蛇信仰も出雲族リトマス試験紙です。

 

余談ですが、インドにも蛇信仰があり、ナーガナーギィという下半身が蛇の男女一対神がいます。これが中国に伝わり伏羲になり、さらに日本ではイザナギイザナミ・蛇を意味する古語「かか」・ウナギの語源になったとの説がある。

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 (女と伏羲 蛇の交尾(しめ縄)を思わせる。手にはコンパスと定規を持っている。これを使って建国(国生み)をした。wikipediaより)

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して②

 

考古学から見る出雲族 

出雲族とは

 

出雲族は、どんな一族だったのでしょうか??

 

この問いに対する答えは・・・

 

分からない!!

 

というのが一番誠実な回答でしょう。

 

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 (行雲のような「出雲族」)

 

古代出雲族についての情報は、古事記日本書紀等の伝説や少ない考古学的資料等に限らるので断定的な説明が困難です。

逆に説明困難だからこそ「出雲」は魅力的です。

見えそうで見えないもの、チラリズムってやつでしょうか。

妄想し放題。言ったもの勝ちの世界です。

 

 ただ、「わからない」では身も蓋もないので,

神話や考古学的成果などを重ねあわせて、ぼんやりと見えてくる姿をまとめてみます。

 

◇考古学からみる出雲

 

考古学的成果を以下列挙すると

 

(+_+)眠たす・・・

 

・出雲地方では、縄文晩期に稲作が開始される(板屋Ⅲ遺跡)

弥生時代前期の遺跡から、朝鮮半島・北九州系の土器が発見される。

弥生時代中期・後期の遺跡の荒神谷・賀茂岩倉遺跡から、大量の青銅器が発掘される。(日本で発見された銅剣の約半数が荒神谷遺跡に集中)

荒神谷・賀茂岩倉遺跡から発見された青銅器の同氾の青銅器が、

 京都・奈良・和歌山・岡山・兵庫・徳島・福井・岐阜から発見される。

・九州北部で多く出土する広形銅矛や近畿・東海で多く出土する銅鐸は出土ていない。

・弥生後期、四隅突出型墳丘墓が出現。

 この型の古墳は、丹後を除く、山陰、北陸の日本海側だけに作られる。

・大型のものは、出雲西部の西谷古墳群と出雲東部の塩津山古墳

・西谷墳丘群3号(わが国屈指の規模)からは、吉備・北陸産の土器が出土。

・弥生後期になると時期を追うごとに山陰系土器が山陽側に広がり、

 後期には広島・岡山南部を除く地域まで到達する。

・弥生後期以降の出雲の鉄器は大陸産の鉄器と共通点があり、

 出土量は瀬戸内・近畿地方を凌駕する。

倭国の大乱のころ(2世紀半ば~後半)全国的に高地性集落が作られるが、

 出雲では倭国の大乱が終息する弥生時代後期末に高地性集落が形成される。

・弥生末~古墳時代初頭を境に拠点集落が急速に姿を消す。

古墳時代になると四隅突出型墳丘墓はつくられなくなっていく。

古墳時代前期は、斐伊川中流(出雲西部)と安来市荒島周辺(出雲東部)の二か所で多くの     前方後「方」墳が作られる。前方「後円」墳はわずか。

・その後、前方後円墳が多く作られはじめられるが、出雲東部では前方後方墳も継続し て作られる。

 その過程で全国一の規模の前方後円墳が出雲西部と東部に1基ずつ作られる。

・東部出雲が出雲国の盟主となる。

 

   ↓  多少?行間を埋めつつまとめると

 

 

 出雲地方は、北九州・朝鮮半島から稲作などの最新技術や青銅器など大陸の物資を取り込むことができた。この地理的優位性を生かし勢力を拡大し、日本海を媒介として山陰から北陸・北九州に及ぶ広域な連合体を形成する。日本海の海運ネットワーク(日本海文化圏)から派生した連合と思われる。

 四隅突出型墳丘墓という独自の埋葬形態、銅剣珍重山体・磐座信仰などの特色がある。出雲東部と西部の2大勢力があり、同じ宗教的意識でつながる横の連合体であった。

 さらに陸路から山陽方面にも進出し、弥生時代後期には岡山・広島の北部にも影響力を及ぼすまでになる。交易圏を含めると四国、近畿、東海まで射程に収める。

出雲連合の一番輝いていた時期であった。倭国を統一するだけのポテンシャルを持っていたのである。勢力拡大の背景に製鉄技術に長けた渡来人が出雲に入植してきたことが想定される。

 その後、倭の大乱の暗黒時代に突入する。北九州・近畿・山陽・東海地域に乱立していた勢力のパワーバランスが崩れ、中規模勢力にまとまっていく時期である。初期は出雲地方は比較的平和が保たれていたが、大乱の後期(3世紀中ごろ)になると時間差で出雲地方にも戦火が及ぶ。

 倭の大乱後の3世紀中ごろ近畿勢力である大和政権纏向遺跡付近に誕生する。大和政権にとって九州北部→瀬戸内→河内→奈良盆地という水運・通商ルートの確保が最重要課題であったため、4世紀はじめに山陽地方・九州北部を次々に支配下に置いていく。この結果、朝鮮半島南部から大量の鉄素材が大和政権にもたらされる。これは歴史の転換点として重要な出来事です。鉄製の農具の導入により従来耕作できなかった土地が耕作地となり人口(兵士)が増え、長期戦・遠征に耐えうるだけの余剰生産を備蓄できる。さらに殺傷力の高い武器を大量に生産できるようになった。大和政権は他を圧倒する経済力・軍事力を手に入れた瞬間なのです。瀬戸内海は大和政権の権力の源泉といえるでしょう(平安時代大宰府を「遠のみかど」/山陽道を「大路」としたことを想起)。ローマは、シーパワーのカルタゴを打つことで地中海の水運ネットワークを支配し急速に勢力を伸ばしていきますが、大和政権の瀬戸内海支配はそれを連想させます。

 大和政権が近畿・山陽・九州北部地方を統一すると出雲地方への進出をはじめる。技術力、鉄の所有量では大和政権には勝るとも劣らない出雲連合体だが、耕作面積に勝るつまりマンパワーに勝る大和政権にはかなわず4世紀中頃に出雲連合は大和政権の軍門に下る。この際も出雲は東部と西部の勢の分裂状態は続いていたが、やがて地理的に大和政権と近い東部出雲が出雲の盟主となり、出雲国として律令制に組み込まれる

 しかし、近畿含むその他の地域では作られなくなった前方後方墳を時代に逆らって作り続けていることから、精神的には出雲の独自性・自立性を意識していたようである。

フリーザに仕える誇り高き戦闘民族ベジータのように。

 

以上が考古学的な視点からの出雲だ。

 

しかし、これで終わらないのが出雲の面白いところです。

 

ここまでの話は、あくまで狭義の出雲、つまり裏日本の出雲族の話。

 

考古学的な資料からはまだ明らかになっていないのですが、記紀や神社を調べてみると、どうやら同じ宗教意識・同族意識を持った出雲族が早い時期に近畿にも進出した痕跡が見つかるのです。

 

一番の謎が、「三輪山大国主」の存在です。

 

大和朝廷揺籃の地のすぐそば、三輪山出雲族の主神大国主が祭られている謎です。

三輪山は秀麗な山で万葉集にもしばしば登場し、大和人の精神的支柱といってもいい山です。大和朝廷の首都にある秀麗な山に遠くは離れた属国の神さまが祭られているというのは理解しがたい事実です。富士山にイエスを祭っているようなものです。

 

この謎には、いまのところ考古学は答えてくれません。

 

次回は、三輪山出雲族の謎を考えたいと思います。

 

※参考文献

・勝部昭「出雲風国土記と古代遺跡」(山川出版)

武光誠「古代史を知る辞典」(東京堂出版)

 

【追記】

◇出雲の語源

 

出雲の語源はいろいろ説があるが、

司馬遼太郎は、イズモの「ツモ」は、一族を意味するとしている。

積もる→集まりというイメージでしょうか。

そうすると、「イという一族」という意味です。

古語は一音節・二音節のものが多いのでおもしろい説です。

そうすると・・・

安曇・大伴・穂積・鰐積・津積もこの理屈で説明できます。

 

京都の太秦(ウズマサ)の地名の由来もこれで説明できるかも。

秦氏は、ウズモ・ウツモ氏と呼ばれていて、

秦氏の根拠地の「太秦」は、「ウズモの長(オサ)」ということで、

「うずまさ」と呼ばせるのかも(妄想)。