京都痕跡街歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都入門】地域カースト②

京都のカーストはどのようにできあがってきたのか見てみよう。

 

◆初期の都市設計

 

平安京は当初次のように設計された。

 

①まず、都の中心軸を、船岡山起点とした南北のラインと定めた。

 

都の東端は、鴨川の川筋とし、

 

都の西端は、都の東端と中心軸を挟んで線対称とした。

 

都の北限は、遷都以前から使用されていた東西の主要道路により定め、

 

都の南限は、桂川鴨川筋によって定まったとされる。

 

平安京の南北軸

南北軸という場合、「真北」と「磁北」のいずれかになるが、平安京は「真北」の南北軸を採用して設計されている。一方、二条城は、輸入したコンパスを使用して設計されたため、「磁北」の南北軸となっている。したがって、城壁と堀川通が平行になっていない。ちなみに、コンパスは忍術にも取り入れられた(過熱した縫い針を加熱し水に浮かべるとコンパスとなる)。

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www.yomiuri.co.jp

◆右京の衰退

 

都市設計は、当時の経済規模や自然環境、治水能力などを無視した形で

 

観念的に行われたため、次第にボロが出始めることになる。

 

そのひとつが、右京の機能不全である。

 

右京は、桂川紙屋川氾濫原にあたり、

 

水害を受けやすい地域であったため、

 

徐々に衰退していった。

 

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 ※京都市の高低差を示した図、平安京の左半分及び五条通以南がやや低くなっており、

 水害リスクを抱えていたことが推測される。

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昭和10年の洪水被害 比較的治技術の向上した時代でも右京は水害を受けた。洛中(お土居の内部)は比較的洪水の被害は小さい。秀吉の築造したお土居の効果があったのだろう。

 

10世紀の著書「池亭記」には右京の衰退の様子が記されている。

※池亭記は、新築のマイホームを手に入れた下級貴族(慶滋保胤:出世街道から外れた天才)の喜びを記した日記。土地が高いために戸建住宅を手に入れることができず、陽明門の近くで賃貸住宅に住んでいたが、50歳になってようやく六条の北に念願のマイホームを手に入れたのだ。身分以上のマイホームだと謙遜しながらもその喜びが伝わってくる。現代の我々も共感できる日記。

 

・右京は人や家が少なく、

・ほとんどが空き家である。

・人が去ることがあっても、来ることはなく

・家は壊れることはあっても、作られることはない

 

 また、右京は、確保できる地下水の質にも問題があったようだ。

 

京都を自転車で観光したことがある人なら分かることだが、

 

堀川以東では南北に傾斜があり、

 

南から北に移動する際には一苦労する。

 

(京都でレンタサイクルを借りる場合は、

北で借りて南で乗り捨てることをお勧めします。)

 

東寺の五重塔のてっぺんが

 

大体、北山通りと同じ高さのなのである。

 

この傾斜により良質な地下水をもたらし、

 

堀川以東では、多くの人口を抱えることが可能となったのである。

 

一方で、堀川以西の地下水には鉄分が多く、

 

生活用水には適さなかったようである。

 

◆中心軸の東方シフト

 

右京の衰退に伴い、平安京の中心が東に移ることになる。

 

当初、都の中心であった朱雀大路は、

 

大内裏が寂れると

 

北側の葬送地の蓮台野があったことから、

 

卒塔婆が「千本」並ぶ千本通となった。

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※餓鬼草子 木製の笠卒塔婆。仏塔(ストゥーパ) のミニチュア

 

そして、新たに都の中心軸となったのが、

 

左京の中央を南北に延びる新町通りである。

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※町尻小路=新町通り、土御門烏丸裏(里内裏)=現在の京都御苑の核となる

 

右京にあった官営の市場である西市が廃れると、

 

新町通り沿いに民間店舗が増えた。

 

特に

 

祇園社とつながる四条大路

 

東海道とつながる三条大路

 

・東市や堀川に近い七条大路との交差点は大いに栄えた。

 

また、

 

通りの北方には修理職木工寮があったため

(いまでいう建設省)

 

公共用の建築資材の関係者が往来した。

 

住宅としては、

 

新町通りの北方(上辺)は

 

大内裏に近いため、

 

貴族たちが住む高級住宅街となった。

 

上辺の南は下辺とよばれ、

 

一般人の居住地となった。

 

※上辺、上辺という呼称は、その後上京下京と変化する。

 

 ここでまた、池亭記をみてみよう。

 

 

 左京の四条の北東・北西は、

 

身分の低い人も高い人も多く住み、

 

金持ちは、りっぱな門と豪邸をつらね、

 

貧乏人は、壁を隔てて、軒がくっついているので、

 

火災が起きると、延焼してしまうほどである。

 

概ね、四条の北側は金持ちが多く、南側は貧乏人が多い。

 

当時から四条通りの北は賑やかで

 

様々な階層の人々が住み着き

 

四条から下ると水害のリスクがあるため、

 

土地は比較的安かったと考えられる。

 

池亭記の作者も六条の北の荒れ地を手に入れているし、

 

源氏物語に出てくる六条御息所

 

六条の東端」に住んでいる設定になっており、

 

下の方、都の端っこに住んでいるので、

 人気は無く、東山の山寺から聞きえる鐘に音に

 釣られて泣く日々を過ごしております」(澪標)

 

と自分の境遇を嘆いている。

 

また、遅咲きの官僚の三善清行

(当時の最難関試験に37歳で合格。司法試験みたいなものかな)

 

なかなかマイホームを手に入れることができずにいたが、

 

自らの陰陽道の技術を生かして、

 

五条堀川にある事故物件から地縛霊を追い出して、

 

念願のマイホームを手に入れている。

 

今昔物語集三善清行宰相家渡りのものがたり」にその過程が書かれている。

天井の格子のひとつひとつから人の顔が飛び出てきたり、

45人の小人(30㎝ほど)が行列(プチ百鬼夜行)をなして歩いたりと

怖いというよりユーモラス。

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五条より下は、

 

喧噪はないものの、ずいぶんと鄙びた場所だったようだ。

 

やや時代は下るが、五条通りが下京惣構の南限になり、

 

戦国時代に行われた祇園社山鉾巡行も五条より南に向かわなかったし、

 

死刑囚は、室町一条を南下し五条通まで市中を引き回したら、

 

西または東に方向を変え、五条通の端にある処刑場へ向かった。

(六条河原刑場と西土手刑場 この辺はまた今度、深堀りします)

 

五条より南は辺縁部という意識はその後も引き継がれたようだ。

 

八条(今の南区)に至っては、

 

ひとたび洪水に見舞われると、辺り一面が湿地帯になったため

 

人口の増加で上京・下京のキャパが越えるまで、

 

開発されることはなかった(後に上皇が開発を始める)。

 

また、当時の庶民のくらしのぶりにも言及がある。

 

いわゆる「棟割長屋」にすんでいたというのである。

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 ※棟割長屋 年中行事絵巻より

 

棟割長屋というのは、

 

一つの長屋を壁で区切った共同住宅(アパート)である。

 

このころ、班田収授が行われなくなり、諸国からの貢納がなくなった。

 

朝廷の財政は悪化し、給料のでない下級官人の中には四行八門

 

(下級官人や百姓向けの分譲住宅地)を手放す者もあらわれ、

 

これらを買い取った貴族や寺社、商人が棟割長屋を建てて、

 

右京から移ってきた者に賃貸し、アパート経営を行った。

 

平安時代には、棟割長屋にも垂木があったが、

 

鎌倉時代になるとオーナーが建設費をケチりはじめ、

 

垂木のない脆弱な構造になっていったという。

 

一度、火事になると延焼してしまう、

 

建築費をケチったアパートとなれば、

 

レオパレス品質そのものである。

 

大内裏といえば、度重なる火災と財政難から、

 

大内裏での生活・政治を放棄して、

 

東方の里内裏へとシフトしていく。

 

実力以上の巨大な大内裏を維持することができなかったのだ。

 

今昔物語には、

 

大内裏内の宴の松原で起こった、

 

(不法侵入者)による官女に対する猟奇殺人の記述があるが、

今昔物語集』巻二七第八話「内裏の松原にして,,人の形と成りて女. を嘲ふ語」

 

このことは、

 

当時の朝廷では大内裏のセキュリティすら

 

ままならない状態にあったことを示しているように思われる。

 

その後、都の中心軸が、

 

室町通烏丸通へと移り、

 

市街地も北方南方鴨川の東岸へと拡大していくが、

 

地域カーストが北から

    

内裏・貴族・武士のすむ地域

    ↓

  二条通り・・・政治的地域と商業的地域との分水嶺

   ↓

商業地域(大商人、庶民などが雑居する地域)

   ↓

  五条通り・・・中心地と辺縁部との分水嶺

            ↓

庶民が住む地域(水害リスクを反映して所得水準は西高東低)

    ↓

  七条・八条通り

   ↓

後発地域

 

 

という基本構造は

 

現在の地域カーストまで引き継がれることになる。

 

【追記】

①辻子の発生

上京区の地図をつぶさに観察していると、

「〇〇辻子」という地名が多いことに気付く。

 

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上京区における辻子(図子)の分布(上京区HPより)、㉚が畠山辻子に比定される。

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 ※現在の今出川付近

辻子とは、連続性の悪い小さな通りを意味するのだが、

上京区に辻子が多いことと右京が衰退したこととは関連がある。

右京の衰退により東側に人口が増加し始めると、土地不足が発生する。

本来、平安京の北限は一条通りであるが、人口の増加で北へ向かって

町が拡大していくが、その過程で発生した計画性・連続性の乏しい通りが辻子なのだ。

また、一条通りより北には、貴族や有力な武家が多く住みついたが、彼らの広い敷地が分割される過程においても辻子が発生することとなる。

中でも有名なのが畠山辻子である。これは畠山氏(室町幕府の有力武家)有していた広大な土地が、没落するなかで分割利用される際に発生した通りである。

その通りには、辻子君(風俗嬢)がいて、表通りを行く客を辻子に引き込んで商売をしていたのである。

基本的に遊郭は町外れにできるもので、

六条の遊郭などは、島原の乱の頃、市街地の拡大により水田の広がる丹波口付近に移転され島原遊郭となる。

一方で、畠山遊郭は花の御所の近くにある。

今の感覚だと国会議事堂の横にキャバクラやソープランドがあるようなものである。

応仁の乱の後のカオスを物語っている。

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※畠山辻子(洛中洛外図) 

左下:「強引に客引きする辻子君」「辻子君と坊主とそれを指さすKYな子供」

右下:「辻子君をからかう男」

中が丸見えで心配になるが、実は二階建(厨子二階)になっていて、

窓もなく天井の低い二階座敷で営業を行っている。

 

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※島原遊郭付近の高低差:やや分かりにくいが遊郭一帯が1mほど高くなっている。遊郭の移転当時、周囲が水田であっため盛土をしたと推測される。

 

②巷所の発生

人口が右京から左京に流れることで生じた変化として

 

巷所の発生があげられる。

 

巷所とは、公共の道路を不法占拠し、自分の土地にしてしまうことである。

 

①右京からの人口流入による土地不足と

 

②朝廷の平安京の管理体制が弱体化により

 

通りを不法占拠する輩が出始めるのである。

 

その痕跡は、京都市市役所裏の二条通にもみられる。

 

現在の二条通りは、寺町通りでなぜか屈折している。

 

下の図のように

 

本来は、青ラインの広さの道だったのだが、

※今の御池通りと匹敵する広さ。

 ちなみに今の御池通が広いのは第二次世界大戦の空襲による延焼を防ぐた立ち退きさせたため。

 

寺町通の西側は南方から

 

寺町通りの東側は北方から

 

道路の不法占拠が始まり、今の屈折した道筋となった。

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 ※二条通に限らず至る所で巷所化が進んだので、交差点で道筋がズレているとしたら、巷所化の痕跡かもしれない。

 

  【参考資料】

京のまちなみ史: 平安京への道、京都のあゆみ

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※おすすめ本♪ 

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

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京都お散歩凸凹地図

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京都の自然ふしぎ見聞録―岩石・河川・盆地・樹木・水

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  ※地質や地形から京都に切り込む本は少ないので稀少性があり。

戦国京都の大路小路 (シリーズ・実像に迫る12)

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平安京―京都―都市図と都市構造

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 ※昭和~平成までの間の京都の高所得者層の分布図まで掲載されている!!