【曼荼羅とマリア】東寺・両界曼荼羅の謎⑨
東寺の両界曼荼羅を詳しく見てみよう。
◆曼荼羅を使った観想法
師が弟子に密教の奥義を授ける
「灌頂」の儀式の際に利用される。
※灌頂とは頭頂に水を注ぐことを意味し、インドのラージャスーヤを模したとされる。ラージャスーヤには頭上への注水だけでなく注油が行われるがいずれも王権授与機能があるとされ、メソポタミアの頭上への塗油行為(メシア:油を注がれし者・救世主)にも王権授与の意味がある。灌頂はオリエントの塗油行為とも関連があるのだろう。
曼荼羅は
灌頂儀式の際に観想法の補助として利用された。
灌頂堂の中央に僧が座り
その左右に
僧は、
自分の体内で合一化して毘盧遮那仏が現れ,
毘盧遮那仏と一体化する」
イメージ操作を行った。
神秘体験をすることにより、解脱を目指したのである。
※仏像とお寺の解剖図鑑より
金剛界曼荼羅は、男性原理を表現している。
中央の座る大日如来は、
「知拳印」の印相をしている。
知拳印は一本だけ立てた指は、男性器を象徴する。
また、体つきも精悍で男性的である。
胎蔵界曼荼羅は女性原理を表現している。
中央に坐する大日の世来は
「法界定印」の印相をしている。
両手で作る輪は、女性器を象徴している。
丸顔で体つきも丸みを帯びており女性的である。
※図説・曼荼羅入門より
さらに大日如来の頭上には
「三角火輪」と言われる燃える三角形のシンボルが存在する。
これも女性器を示すものである。
本来は逆三角形で表現されていたが、
あまりにも露骨ということで中国に入ってきた段階で
三角形になったのだ。
※三角形が燃えているのはなぜか?気になるところだが、火を崇拝するゾロアスター教(あるいはアーリア人の火の神アグニ信仰)が関係するかもしれない。というのは三角形の上に坐するのは迦葉というゾロアスター教(拝火外道)から仏教への改宗者だからだ。
両界曼荼羅は、
インドで別々に成立した
中国で統合されたものであり、
両界曼荼羅の「男性原理+女性原理=完全」という思想は
直接的には中国の陰陽思想をベースにする。
しかし、
女性原理のシンボルに溢れている。
仏教は本来、女性原理を冷遇していたが、
曼荼羅の中に女性原理が取り込まれた背景には
シャクテイ(性力)信仰があるだろう。
金剛界曼荼羅の理趣会には
「恋愛感情→愛撫→交接→高揚」
という男女の営みを示した図式があるほどだ。
右:キューピットの矢(欲情)をもつ菩薩:恋愛感情を表現
左:腕を交差する菩薩:抱き合う・触れ合う男女を表現
右:大摩竭の幡を持つ菩薩:摩竭はなんでも喰らう大魚→情欲をむさぼる男女を意味する
左:ドヤ顔で慢心のポーズで座る菩薩:男女の交合で高揚する感情を表現
※図説・曼荼羅入門より
また、仏教においては、
基本的には男尊女卑の思想であり、
「女性は悟りを開くことができない」と考えられたため、
※ブッダ自身は「男であろうと女であろうと真実の車に乗って涅槃のもとにいたる」(相応部Ⅰ)としているが、それでも「真実の車に乗るため」の女性出家には消極的なスタンスをとっている。
菩薩は少しの例外を除いては男性であるが、
取り入れられたと考えられている。
曼荼羅の中の女性原理のシンボルは
シャクティ信仰
つまり
古い地母神信仰の表れなのである。
※真鍋俊照『日本密教と女神』「女神たちの日本」
「ここで重要なことは、密教で「女神」という場合に両者(男性と女性)の間にシャクティという神秘的な力が介在することである。…ところが我が国においては必ずしも明妃シャクテイの意味付けが明確でない。その理由は男・女神を人間と同じような交接のパターンでは認識されなかったからである。そのようにシャクティの本質が意図的に表現されなかったために女神の概念やイメージは神秘のヴェールにつつまれている場合が多い。また、造形上のことを考えると作者の意識の中に女神の存在の極地を何らかの伝承や縁起などの物語性の中に委ねている場合が多いのもそのためであろう。インドの後期密教が承継しているシャクティには世界の破壊と輪廻の側面が同居し、それはそのまま女性原理に支えられてきたといってよい。このシャクティの介在を男・女神の一体・融合の中に認めた造形は既述のように我が国では発展しなかったが、空海が大堂元年(806)に中国より持ち帰った両部曼荼羅やその後の別尊曼荼羅の中には、一見して「わからない」形で視覚化されている。」
◆曼荼羅とマリア
数千年の歴史を
「女性原理と男性原理」「宗教と性」の観点から
かなり乱暴にスケッチしてきたが、
そこからは、
オリエントの地母神が
西に向かうとマリアとして現れ、
【追記】
◆五山の送り火
京都の夏の風物詩に五山の送り火(大文字焼き※)というものがある。
このイベントの起源には諸説あるが
もともとは「灌頂儀式を大規模に行ったもの」とも考えられる。
※大文字焼き:このワードを使うと一部「京都人」に「どんな御菓子どすか~??」的な嫌味を言われることもあるので注意。「大文字焼き」と言っても大きな間違いではないのだが…性格の悪さをチェックするためにわざと言ってみるのも一興。
※仏像とお寺の解剖図鑑より。高野山金剛峰寺の伽藍配置灌頂儀礼の類似性が見られる。
送り火は、
左大文字と右大文字の中央に位置する「御所=王土」の
安寧を祈願するあるいは
王権の絶対性を祈願する儀式だったのかもしれない。
◆曼荼羅と須弥山
両界曼荼羅は、男性原理と女性原理と捉えられる一方で
マクロコスモスとミクロコスモスを表すとも考えられる。
つまり、胎蔵界曼荼羅はマクロの世界を表し、
金剛界曼荼羅はミクロの世界を表しているのだ。
※また、金剛曼荼羅は時間(らせん状に時間の流れを配置)、胎蔵界曼荼羅は空間を表しており二つで時空を意味する。
ここでインド人の世界観を見てみよう。
古代インド人は、
世界は
・物質世界と精神世界で構成された「欲界」
・精神世界のみで構成された「色界」
・より高度な精神世界で構成された「無色界」
できており、
欲界の中央に須弥山が聳え立ち、その上方に色界・無色界がある考えた。
西欧流の近代教育を受けている日本人にとっては違和感がある考え方だ。
デカルト流の近代科学では、
客観と主観を分離し、主観を排除し
客観的に宇宙・世界を把握しようとしているのに対し、
古代インドでは、
あくまで主観あるいは肉体を通じて世界を把握しようとしているからだ。
※私は、私にとって真理であるような真理を見つけなければならない。
無色界のさらに上部に「悟りの世界」つまり「仏の世界」がある。
瞑想には、
肉体・精神・自我の感覚に応じて
初禅→第二禅→第三禅→第四禅→空無辺処→識無辺処→無所有処→非想非非想処
のレベルがある。
「初禅から第四禅」のレベルにおける世界認識が「色界」、
※座禅により肉体感覚が消えているレベル。自分の境界線が分からなくなるレベル。
「空無辺から非想非非想処」のレベルにおける世界認識が「無色界」
※自我の感覚が低下しているレベル
と捉えるのである。
ブッダは死の間際、瞑想を行い
初禅から入り、非想非非想処(このレベルの身体精神状態を有頂天という)に至り
最後に悟り(ニルヴァーナ)に至ったと
「ブッダ最後の旅」に書かれているように
インド人は
非想非非想処のさらに上がニルヴァーナであり
仏の世界と考えたのだ。
世界は
「欲界」→「色界」→「無色界」→「仏の世界」という
垂直構造をしていると考えた。
※図説・曼荼羅入門より
この世界観が胎蔵界曼荼羅にも示されている。
胎蔵界曼荼羅の一番外には最外院という領域があり
そこには、「欲界」「色界」「無色界」が表される。
無色界の上部にある仏の世界が「最外院」の内側に配され、
内側に行けば行くほど世界の上部に至るのであり
曼荼羅の中心はトップオブザワールドで
そこには大日如来が鎮座しているのである。
本来、曼荼羅は壁に掛けるのものではなく、
床に敷いて用いるものであり、
行者は、曼荼羅の中心に座り、世界の頂上での座禅を観想したのである。
※仏像とお寺の解剖図鑑より