京都のカーストはどのようにできあがってきたのか見てみよう。 ◆初期の都市設計 平安京は当初次のように設計された。 ①まず、都の中心軸を、船岡山起点とした南北のラインと定めた。 ②都の東端は、鴨川の川筋とし、 ③都の西端は、都の東端と中心軸を挟んで線…
京都観光や京都への移住を考えている場合、 地域カースト(ランク付け・格付け) を頭に入れておくと結構役にたつ。 ある雑誌によれば、 京都には 以下のような地域カーストがあるという。 S:中京区・上京区(御所周辺) A+:中京区・上京区(御所周辺以外) 下京…
東寺の両界曼荼羅を詳しく見てみよう。 ◆曼荼羅を使った観想法 両界曼荼羅は 師が弟子に密教の奥義を授ける 「灌頂」の儀式の際に利用される。 ※灌頂とは頭頂に水を注ぐことを意味し、インドのラージャスーヤを模したとされる。ラージャスーヤには頭上への注…
◆唐のにぎわい 若き空海が中国に渡ったころ、 唐には シルクロードと海洋交易を通じ 西方の文物が大量に流れ込み、 国際色豊かな大都市として発展していた。 唐の酒楼(高級ナイトクラブ)では、 白人の鼻の高いイラン・ソグド系の女性(胡姫)が 目にブルー(ア…
◆シャクティ信仰とタントラ ヒンドゥー教のシャクティ信仰は新たな展開を見せる。 古来よりインドには 肉体と精神との調和を目的とした 独特な人体生理学に基づく身体技法(ヨガ)があったが、 ※具体的には「呼吸抑制」と「イメージ操作」などで、仏教の「修行…
◆女王の帰還 インダス文明では地母神が崇拝の対象であったが、 ヴェーダ時代になると地母神は表舞台から消える。 しかし、 バラモン教がインダス由来の土着信仰を取り入れ ヒンドゥー教に変化すると、 古層の地母神信仰(女性原理)が再び息を吹き返すのである…
BC1500年頃にインド亜大陸に侵入したアーリア人は インダス川の流域とガンジス川の流域をたどりながら 約1000年かけて インド亜大陸を横断してインドの東海岸に到達する。 その中で 遊牧民族であったアーリア人も 農業を覚える者や ベナレスのような大都で…
バラモン教では、女性原理と男性原理はどのような関係であったか ◆ヴェーダの神々 バラモン教のヴェーダの神々で有名なのが、 ディーヴァ・インドラ・ミトラヴァルナ・アシュラ・アグニである。 これらは共住時代からアーリア人が信仰していた古の神々で、 …
では、今度は古代インドにおける女性原理と男性原理を時代別にみてみよう。 ◆インダス文明 インダス文明の文字の解読が出来ていないため詳しい内容が分からないが、 男根崇拝、地母神信仰、牡牛信仰があったようだ。 印章の中には、多くの獣に囲まれ、行者ら…
古代宗教における女性原理と男性原理との関係はどのようなものだったのか?? 世界最古の物語、ギルガメシュ叙事詩を素材にみてみよう。 ◆ギルガメシュ叙事詩 ギルガメシュ叙事詩の概要は以下のようなもの。 ・昔々、メソポタミアに半神半人のギルガメシュと…
今回は、京都の東寺の寺宝「両界曼荼羅」に秘められた意味を探ってみたい。 ※国宝:両界曼荼羅 今まで曼荼羅を見ても、 「ゴテゴテして品のない美術だな」くらいにしか考えず、 美術館や宝物殿を華麗にスルーしていましたが、 山折哲雄氏の「空海の企て」と…
京都の狐坂(きつね坂)は、 北山・松ヶ崎と岩倉・国際会館を結ぶ峠道で 京都屈指の心霊スポットとして名高い??そうです。 おいらは、時々夕方にマラソンで狐坂に行きますが、 いままで出会ったことがないのです。 高架が出来てからはそれほど薄暗さを感じら…
「信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」 (信州の千曲川の石も、あなたが踏んだものなら 宝石だと思って拾いましょう) ※千曲川(千曲市観光協会HPより) 万葉集の東歌の一首です。 ・上毛野安蘇の真麻群かき抱けど飽かぬを何どか吾が…
◆臥牛像の謎 wikipediaより 北野天満宮を訪れると多くの牛の像があり、 なぜ牛の像があるの?? と疑問に思われる人も多いのではないでせうか? 今回は、このなぞ解きをしたいと思います。 北野天満宮のHPを見てみると次のように書かれている。 御祭神菅原…
今回は、北野天満宮へ異国を探しに行きませう。 ◆星欠けの三光門 北野天満宮の参道をまっすぐ行くと三光門がある。 北野天満宮は菅原道真を祀ることで知られているが、それより以前から天神を祀っていた(続日本後記)。この天神信仰は三光信仰といい、日月星…
沈む出雲氏・昇る賀茂氏 ◇山城賀茂氏は天津族!? 山背の開拓者・出雲氏は衰退していく中、 賀茂氏は勢力拡大に成功する。 勢力拡大の要因の1つが、 平安京遷都の際に王城守護の地位を手に入れたことだろう。 上賀茂・下鴨神社は、伊勢神宮に次ぐ社格を与え…
消えゆく山背出雲氏 ◇出雲郷からの逃亡者 山背国愛宕郡出雲郷計帳によれば、 かなりの数の女性が出雲郷から逃亡した記録が残っている。 なぜ逃げる必要があったのだろうか?? 原因の1つに洪水被害(付随する疫病)があったのではないかと想像する。 出雲路付…
山背出雲氏の発展 山背国で出雲氏は300人を超える勢力にまで成長するのですが、 この勢力拡大の裏に何があったのでしょうか。 ◇出雲臣を称する人々 「山背国愛宕郡出雲郷計帳」によれば・・・ 雲上里の8人の戸主(家の代表)は、全員「出雲臣」で 雲下里の…
◇山背出雲氏の出自 京都の出雲路に住んでいた出雲族はどこからやってきたのでしょうか? 難題ですが、手掛かりはあります。 【山代郷の正倉】 ここで山背国から出雲国に目を転じてみます。 出雲国の中心地は、大和に近い意宇(おう)郡である。 出雲国国府つま…
京都の出雲族 ◇奈良時代の住民台帳 京都にも出雲族がいたのでしょうか?? この問いの答えは、 正倉院に保管されている書物にありました。 ナイス!!正倉院!! 「山背国愛宕郡出雲郷計帳」という 税金を徴収するための住民台帳です。 726年の京都の出雲郷…
記紀の中の出雲(神武東遷以降) 国譲り後の記紀を見ていきませう。 ◇天孫降臨ー神話から歴史へ アマテラスは地上界にニニギを派遣します。ニニギは九州に天孫降臨。 降臨以前が神話の世界で、降臨以降が人間界の話,つまり歴史になります。 天孫族に寿命ができ…
記紀の中の出雲族(出雲神話) ◇記紀の歴史学的価値 記紀は戦前の皇国史観のアレルギー反応から歴史と結びつけることがタブー視されてきました。また、出雲を低くみる傾向があり、出雲神話は完全なフィクションとみるのが大勢でした。しかし、時間の経過ととも…
三輪山のオオモノヌシの謎 ◇出雲族のリトマス試験紙 狭義の出雲、つまり出雲地方の出雲族というのは割合わかりやすい。 しかし、出雲族はフロンティアスピリッツにあふれる民族なので、 出雲地方を離れて広範囲に活動している。 そこで問題になるのが、 故地…
考古学から見る出雲族 ◇出雲族とは 出雲族は、どんな一族だったのでしょうか?? この問いに対する答えは・・・ 「分からない!!」 というのが一番誠実な回答でしょう。 (行雲のような「出雲族」) 古代出雲族についての情報は、古事記・日本書紀等の伝説や…
出雲族の気配 ◇鴨川デルタ 賀茂川と高野川の合流点は、 鴨川デルタ(正確には三角州ではないですよ。)と呼ばれ、 大学生サークルの宴会のメッカです。 私が大学生のころも、 ・外で飲むときは、「鴨川デルタ」、 ・店で飲む時は「三条土下座像前」 に集合とい…
◇弯曲する上御霊前通り 上御霊神社周辺の地図です。 大きく弯曲する道(上御霊前通り)がありますね。 現地の写真がこちら ↓ 京都にはあまり見かけない道筋だと思います。 これは何かというと・・・今出川の痕跡です。 同志社大学の近くにある今出川通の名前の…
前置きが長くなりましたが、相国寺大塔の場所をさがしませう。 ①地名②古地図③洛中洛外図屏風④古文書⑤高低差からアプローチしてみます。 ◇地名 前回、相国寺大塔の基壇が、一辺:30m、高さ:2m以上と推定しました。 非常に大規模な基壇だったので塔が焼…
件の大塔はどこにあったのでしょうか?? そして、今でも痕跡は残っているのでしょうか??? 場所をさぐる前に、七重塔の規模を推測してみませう。 ◇中古京師内外図 中古京師内外図によれば、 109m×109mの敷地に七重塔が立っていたとのこと。 しかし、この地…
相国寺大塔に関する資料をまとめると(てきとーな現代語訳)… 【大日本史料】 ・1392年11月1日 相国寺大塔の基礎を定めたよ ↓ 【相国考記】 ・1393年6月24日 柱をたてたよ ↓ 【大日本資料】 ・1399年9月15日 大塔ついに完成。 ・義満、1000名の僧侶をひきつれ…
京都の仏塔といえば… まず、東寺の五重の塔、八坂の五重の塔が思い浮かびますよね。 でも。。。 かつて、京都には、とんでもない高さの七重の塔があったのです!! その名は。「相国寺大塔」。室町時代に立っていて今はもう存在しません。 どれくらいの高さ…