【異国の北野天満宮①】三光門の謎
今回は、北野天満宮へ異国を探しに行きませう。
◆星欠けの三光門
北野天満宮の参道をまっすぐ行くと三光門がある。
北野天満宮は菅原道真を祀ることで知られているが、それより以前から天神を祀っていた(続日本後記)。この天神信仰は三光信仰といい、日月星をお祭りしていたのだ。三光信仰からすると門に日・月・星のシンボルを施さなくてはならないが、ここの門には星のシンボルがない。このことから「星欠けの三光門」として北野天満宮の七不思議に数えられている。
※ちなみに三種の神器は日月星の象徴(鏡=日、勾玉=月、剣=星 ←七星剣を想起)です。
星が欠けている理由だが、北野天満宮のHPでは以下のように説明されている。
本殿前の中門は三光門と呼ばれ、神秘的な「星欠けの三光門」伝説が残っています。それは、門の名は日・月・星の彫刻に由来しているけれども星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。平安時代、御所の場所は現在とは異なり当宮を北西に臨む千本丸太町に位置し、帝が当宮に向かってお祈りをされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからだと伝えられています。
※星欠け三光門 北野天満宮HPより
つまりは、御所の北にある北野天満宮を遥拝したとき、北極星が見えるからわざわざ彫る必要はなかったというのだ。真相は如何に??
三光門全体が五芒星の形に見えるので、門全体が星を表すのでは?(妄想)
ここで三光信仰についてもう少し掘り下げてみよう。
三光信仰のベースは北辰妙見信仰で、北辰(北極星)を崇拝する中国の信仰だ。
北辰信仰は世界樹信仰というオリエントから地中海・北ヨーロッパに広がっていた古代信仰にルーツをもつ。
※北欧神話の世界樹(ユグドラシル)、生命の樹とも呼ばれる。北極星が高い位置にくる地域、つまり比較的緯度の高い地域で住んでいた民族が信じたのだろう。wikipediaより
夜空は北極星を中心に回転しており、これをみた古代人は「世界は、大地に傘が刺さっているような構造でである」と想像した。天空を「傘」、樹木を「傘の柄(宇宙軸)」に見立て、大地から北極星に向かって樹木が伸び大地と天を繋いでいると考えた。樹木を通じて天使が行き来をする天地を繋ぐエレベーターと考えたのだ。
世界樹を軸として天空が回転していることから、北極星に伸びる世界樹あるいは北極星を畏敬の対象にしたのだ。
ネブカドネザル2世が別な不吉な夢を見た。それは天に達する一本の高い木に、豊かな実が実り、鳥が巣を作り、動物は木陰に宿っていたが、聖なる天使が下って来てその木を切り倒し、切り株だけを地中に残したというものであった。
中国では、世界樹が須弥山として描かれる。
須弥山 wikipediaより
壁画・彫刻になると山頂には北極星のシンボルとして女神・「西王母」が描かれる。
中国の古墳から出土した図(五胡十六国時代)を見てほしい。
中央にそびえるのが世界樹・須弥山である。周りは火山で覆われており頂上部はオーバーハングしていて容易に登れそうにない。
左下には太陽の象徴の三足カラスが描かれている。日本でいうヤタガラスである。
太陽とカラスが結びつけられたのは太陽の黒点をカラスに見立て、三本足は陰陽思想の陽を象徴するからだろう。ヤタガラスは古事記にもでてくるが元をたどると中国の思想なのである。また、ヤタガラスが神武天皇を導くが、鳥が王を導くというストーリーはフン族で有名なハンガリーの建国神話にもでてきている。建国神話は、ユーラシア大陸の騎馬民族との結びつきがあるのだ。日本のヤタガラス・日本代表のエンブレム・建国神話は舶来物なのだ。
そして、右には九つの尾をもつ狐が描かれている。九尾の狐である。能の「殺生石」・最近では「うしおととら」「NARUTO」などのアニメでもおなじみですね。須弥山に上がってくる者から天上界を守っているのである。もとは九本の尾すべてに獅子の頭部がついていり、グロい姿なのだがマイルドな表現に変化した。
※葛飾北斎の九尾の狐 傾国の王妃に化ける話。西王母とのイメージの連関があるのだろうか。wikipediaより
そして頂上には西王母が鎮座する。西王母の頭には「勝」という道具が突き刺さっている。少しわかりくいので他の墓地の壁画↓を見てください。
これは機織りの道具である。機織りには世界を調和させる意味合いがあると考えられている。また、機織りは、非常に重要な産業でした。今でいえば自動車産業です。特に養蚕は中国以外には知られていない最先端技術であった。ローマにもシルクロードあるいはインド洋を通じて絹織物が運ばれ珍重された。ローマの百科事典「博物誌」(プリニウス)には、「絹織物は婦人に着させても裸のようでめちゃエロい」(超訳)とかかれています。また中国が製法を極秘にしたことから、ギリシャの頃は作り方までは伝わっておらず、「製法は分からないが、木の繊維を極限までたたきのばして作ったのだろう」(ストラボン・「地理誌」)と記載してる。今の感覚では、織物の道具を重視する理由は分かりにくい、当時は国に財をもたらす重要なアイテムだったのです。七夕伝説の「織姫」にも繋がりますが、この話は次回の臥牛像の謎で触れたい。西王母はもともとは両性具有のグロテスクな神様でしたが、女性の姿に変化した。ユーラシアの地母神信仰・ヨーロッパの女神のイメージが影響したとの説もあり、その関連性が指摘されている。
ワントップの西王母ですが、やがてツートップ、男女一対神となる。西王母と東王父ですね。
その後、北極星の地位を天帝に奪われ、月としての地位に納まるのである。
センターを追われたアイドルのようでなんだか悲しい・・・
(古代の女性崇拝から男性優位の社会ヘシフトしたのでしょう)
ここに三光信仰のプロトタイプができあがるのです。
三光門のもとをたどれば、ユーラシアの原始信仰の世界樹・地母神信仰にたどりつくというお話でした~
①チャタル・フユックの地母神
②メソポタミアのイシュタル(紀元前1500頃)と森の神・フンババ
③ローマのキュベレ
④中国の西王母
⑤日本の三角縁神獣鏡
西王母の起源はどこにあるのか?
諸説あるが、個人的にはオリエントの地母神に起源を求める説に魅力を感じる。
※西王母の原像 : 中国古代神話における地母神の研究. Author. 森, 雅子 ↓
上の5つ(①~⑤)の意匠をみてほしい。
それぞれの意匠には共通点がある。
それは
「女神が両脇に獣を伴っている」
ことだ。
◆チャタル・フユックの地母神像
①はアナトリア(トルコ)のチャタル・フユックで発見された女神像で、
紀元前5000年前のものとされ、現時点では最古の地母神像である。
このクベベの属性として、
・森、山の女神
・百獣の女主人
・両性具有性あるいは性愛=完全性
・豊穣の神
があり、最古の地母神もこのような性質を持っていたと考えられる。
狩猟採集生活では、
食料としての獣、食をもたらす森、そして繁殖・生産が重要視されたのだろう。
チャタル・フユックの地母神は、
獣を伴い、ふくよかな姿は繁殖を象徴している。
メソポタミアのギルガメシュ叙事詩の中のイシュタルとフンババも
もっとも、メソポタミアでは都市生活が発達し、
森との関係が薄まったため、
女性性と獣性が分離され、
女性性は「イシュタル」、
獣性は「フンババ」に収斂していく。
イシュタルは好色な女神で、
豊穣、両性具有性を示している。
また、フンババは、ギルガメシュ叙事詩では森の守護神とされている。
イシュタルとフンババを一体的に考えれば、
なお、メソポタミアのイシュタルの神殿では、
毎年新年に王と巫女との聖婚が行われる風習があり、
七夕伝説との類似性も指摘されている。
◆ローマのキュベレ
②は、ローマの女神キュベレーである。
キューベレーは、アナトリアのクベベがローマに伝わったものである。
こちらも女性が獣を引き連れている。
脇に男性神を引き連れているが、これはいわゆるセフレであり、
キュベレの両性具有性を象徴している。
◆中国の西王母
中国の西王母は、
龍虎座に座り、両脇に龍と虎の獣を伴う形になっている。
(龍は「東」・虎は「西」の象徴だから、その中心に座ることは世界の中心に座ることを意味している。)
また、右脇に男性を引き連れているし
これを両性具有性とみることができるかもしれない。
さらに西王母は、須弥山の頂上にいることから、
山岳・森の女神の属性を有している。
以上より、西王母はオリエントの地母神の属性を良く備えており、
時間的距離的乖離はあるが、シルクロード・激しい騎馬民族の往来、
そして、意匠の伝達速度の速さを考慮すると大いに可能性のある説だと思う。
「神」は西王母、「獣」は神獣を意味します。
遠く離れたオリエントの女神を想像しながら、鑑賞するのも乙なものです。
論文では指摘がないが、図説世界女神大全によれば、
獅子を伴うオリエントの地母神と同根という。
ちなみに奈良の法隆寺には有名な玉虫厨子がありその基壇部分に世界樹・須弥山の姿が見られます。
※復元された玉虫厨子
http://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi_zushi.htm#tamamushi
【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑩(完)
◇山城賀茂氏は天津族!?
山背の開拓者・出雲氏は衰退していく中、
勢力拡大の要因の1つが、
平安京遷都の際に王城守護の地位を手に入れたことだろう。
他には伊勢神宮にしかいない斎宮(皇女が神に仕える宮)もおかれる。
ほとんど天皇家の神社としての扱いを受けるのだ
もちろん社領も与えられ経済面も盤石だ。
「令義解」では、
・伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造斎神は、天神(あまつかみ)
・大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神は、地神(くにつかみ)
と記されている。
つまり、
「山城の賀茂族は天津族」とされているのだ。
天津族だから天皇家に優遇されるのは当然とも考えられる。
しかし・・・
その証拠がいくつかある。
【証拠1】
「上賀茂は神山」を「下鴨は御蔭山」をそれぞれの信仰の対象としている。
賀茂氏の信仰の本質は、山体・磐座信仰である。
先に述べたが、山体・磐座信仰は出雲族の特徴の1つだ。
(賀茂川より「神山」を望む。古代人は柔らかな山容を好んだようだ。)
(高野川から御蔭山を望む。分かりにくいが中央の小高い山。しばしば、下鴨神社は上賀茂神社から分離されたと説明されるが、異なる神奈備山を頂いている事実をどう説明すればよいだろうか。はじめから別々の神社だったといえないか。)
【証拠2】
山城賀茂氏の祖は、葛城鴨氏としており、
葛城鴨氏はヒトコトヌシ(オオクニヌシの息子)を祀っている。
【証拠3】
下鴨神社の本殿の前の「言社」という不思議な摂社がある。
本社の拝殿前に摂社が7つ並ぶのは珍しい光景だ。
下鴨神社が編集している「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」という
本をパラパラ読んでみたが、
言霊信仰からみたいな趣旨の説明があるものの
はっきりとした由来は分からずじまいだった。
本当に「すべて」が書かれているのだろうか。
言社は7つの小社で構成されており、祭神はすべてオオクニヌシなのである。
オオクニヌシには少なくとも7つの名前がある。
多くの名前がある理由は、
出雲が勢力を拡大する中で土着の神様を統合していった結果と考えられている。
名前の多さは、神力のバロメーターの1つ。
7つの社はそれぞれの名前に対応している。
拝殿前に出雲の主神をご丁寧に七柱も祭る念の入れ様。
言社という名前も、オオクニヌシの息子のヒトコトヌシを思わせる。
(本殿前の言社案内。「えと詣」となっているので、祭神が縁結びで有名な色男の大国主であることを知っている人は少ないだろう。縁結びの願掛けは相生社より言社がいいのでは??ちなみに相生社の祭神は、宇宙を生みだした滅茶苦茶エライ神様です。God of God。拝むときは粗相のないように(笑))
【証拠4】
下鴨神社の社伝も、出雲氏と賀茂氏は同祖であることを認めているところだ。
以上のことから
賀茂氏は、もともとは出雲族であったといって間違いないだろう。
では・・・
そこには平安遷都の際の桓武天皇の心理状態が影響していると思われる。
無実の罪で殺された多くの屍の上に築かれた政権なのです。
即位後、身近の人々が1年に1人位のペースでバタバタと死に、
水害等の天変地異が次から次へと起き、東北では蝦夷の反乱が勃発。
桓武天皇は、思い当たる節があったのでしょう、
政敵の怨霊の仕業だと思い、長岡京から逃げ出すのだった。
遷都の速度は尋常ではなく、決定から遷都まで3週間!!
桓武天皇の恐怖心は相当なもので、ほとんどノイローゼ状態だ。
「次に呪われるのは朕やもしれぬ。やばい。やばい。」
と急いでいるのである。
遷都の際に重要なのが王城守護の祭神の決定である。
都の鬼門を封じる祭神を決めなければならない。
しかし、その頃、鬼門にあったのは出雲寺・鴨社などいずれも出雲族ゆかりの寺社。
天津族たる天皇家の王城守護を国津神に任せるのはどうにも具合がわるい。
さりとて出雲族の神を移動させて天津族の神をまつり直すと
地祇神の怒りを買いさらなる災いが起こるかもしれない。
苦肉の策として賀茂氏を天津族に組み込み、
上賀茂・下鴨神社を天皇家の守護としての地位を与えたと考えられる。
※村井康彦「出雲と大和」、「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」参照
令義解では、
「山城の鴨は天神(あまつかみ)、葛木の鴨を地神(くにつかみ)」
と記載されている。
同じ鴨氏がなぜ天神と地神に分かれるか?
と疑問に感じるが、このように考えれば合点がいく。
(下鴨神社HPより。言社の位置に注目。中門正面・祭神に準じる配置)
山城賀茂氏は出雲族なので、本来はオオクニヌシを祭神とすべきところだが、
王城守護としての立場上、オオクニヌシを祭祀の中心にもってくることはできない。
「拝殿前」という言社の配置は、その辺の心理をよく表しており、
絶妙なバランス感覚だと密かに想像して楽しんでいる。
同じ出雲族ではありながら、
・天孫族と出雲族の二面性をうまく使い分けながら天皇家から支援を受けた賀茂氏は
現在にいたるまで繁栄を享受するのであ
桓武天皇の代で、天武系の皇統から天智系の皇統へとシフトするのだが、
両氏に明暗が生じた深淵には、
天武系の皇統VS天智系の皇統の対立構造があったのではないかと想像する。
◇山背出雲氏の末裔
それでもプライドをもって生きた者もいた。
京で流行していた謡に「雲太、和二、京三」というのがある。
大きな建物ベスト3を口ずさむものだ。
おそらく、出雲氏の末裔が歌い始めたのだろう。故地出雲への憧憬と自負を感じる。
※「口遊」(源為憲著) 平安時代に貴族の子供のために書かれた教科書。「雲太・和二・京三」の記載が見られる。「九九」も掲載されている。当時は情報の伝達・蓄積・複製の方法が限られていた時代だったので「学問=暗記」。口ずさんで暗記したのだ。学者が読んでも難しい部分もあるという。恐るべし、平安時代の小学生。
また、「出雲郷」という地名は消えてしまったが、
「出雲路」という地名は1200年以上に渡って継承されている。
地名がうつろいやすいことは平成の大合併からも容易に想像がつく。
これだけ長い間地名が残るのは
そこに住む人々が地名に特別な強い思い入れがあったからに違いない。
「出雲へと続く道」
遠い異国で出雲を思い続ける出雲氏の末裔が、
大切に守り続けてきた地名ではないだろうか。
出雲氏の出雲井於神社は,
本殿の傍らで静かにたたずんでいる。
敗者の神様も消さずに残すのは日本文化のいいところです。
そんな出雲井於神社にも少ないながらも熱心に参拝する人がいる。
氏子だろうか。
山背出雲氏の末裔は今もいるのかもしれない。
【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑨
消えゆく山背出雲氏
◇出雲郷からの逃亡者
山背国愛宕郡出雲郷計帳によれば、
かなりの数の女性が出雲郷から逃亡した記録が残っている。
なぜ逃げる必要があったのだろうか??
原因の1つに洪水被害(付随する疫病)があったのではないかと想像する。
土地が突然下がる洪水常習ポイントで、
治水技術が未熟な古代から近世にかけて
洪水に悩まされてきた。
秀吉がつくつた堤防(御土居)もこの辺りは二重にして強化しているくらいだ。
他には、
より労働条件のいい土地への移動(三世一身法など口分田制度が崩壊する中でどの豪族も
労働力を求めただろう)、賀茂氏・秦氏の勢力拡大、重税化などが考えられる。
いずれも想像の域は出ないが、
730年頃には既に山背出雲族の勢力に陰りが見え始めていたのだ。
◇ナマズ汁と破戒僧
「宇治拾遺物語」にナマズに転生した父親をたべた上出雲寺の別当の話がでている。
話の粗筋はこうだ。
平安の末期、上出雲寺は古くなっており、ろくに修理もしていなかったため、御堂も傾いていた。
ある日のこと出雲寺の別当(住職)浄覚は、夢枕で死んだ父親から次の話を聞いた。
「明後日、大風が吹いてこの寺は倒れてしまうだろう。その時、ナマズに転生した私は寺の瓦から這い出てもがき苦しむ。そこでお願いだ。ナマズになった私を鴨川にはなしてはくれまいか。そうしたらのんびりと琵琶湖で余生がくらせる。」
これを聞いて浄覚は目を覚まし、事の次第を妻に告げた。
その後、夢のお告げ通り、大風が吹き寺が崩れ、瓦の下からナマズがでてきてもがき苦しんでいた。浄覚は1メートルもあるマルマルとした魚に喜び、鉄棒でナマズの頭を一突きにした。それでもナマズは苦しむので子供に鎌をもってこさせ、エラを掻き切って家に持ち帰った。
妻はなんで殺してしまったのと抗議したが、浄覚は「こんな立派なナマズは放っておいたら他人に取られて喰われてしまう。どうせ喰われるなら、息子や孫に喰われるのが親父様も本望だろう」と取り合わず、妻にナマズ汁を作らせ、「さすがに親父様の肉だ。そこらへんの鯰とは違う。うまい。うまい」と夢中になって食べていたのである。
しかし、夢中のあまり喉にナマズの骨を詰まらせて嗚咽の果てに死んでしまうのであった。(浄覚の父親も妻帯。ナマズに転生したのも、その報いか? )
※琵琶湖の (~゜・_・゜~)
琵琶湖には3種類の鯰がいる、そのうち
・イワトコナマズは美味で蒲焼は、ステーキ・トロ並みのおいしさなのだそうだ。
・一方、1mを超えるビワコオオナマズは、油が多くめちゃくちゃまずいらしい。
市場に出してもキロ20円でも売れなかったようだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/25/3/25_211/_pdf
・私たちも外来種のナマズを日ごろ食べています。のり弁の白身魚とかです。
・浄覚が食べたのは大きさからしてビワコオオナマズ。
「さすがに親父様の肉はうまい」といったのは、
ビワコオオナマズは不味いという認識があったからでしょうか。
(ビワコオオナマズ。ブラックバスをも捕食する外来種スイパー。wikipediaより)
この話から分かることは、
平安末期、出雲寺は荒廃していたということだ。
今昔物語にもそのような事が書かれているので間違いないだろう。
そして、出雲寺の住職は妻子持ちで肉食までする破戒僧として描かれているのである。
大宝律令下では、僧侶は、肉食、妻帯、金銭を得るための説法が厳しく禁止されていた。
この説話からは、戒律を守らない俗法師に対する蔑みが伝わってくる。
経済的困窮のあまり俗法師になった出雲氏に対する軽侮から生じた説話だろう。
※俗法師については、喜田貞吉 俗法師考参照
しかし、出雲寺の住職にはどうしようもない事情があったのかもしれない。
戸籍が示すように出雲郷の人口減少は氏子の減少を意味し氏寺の経済力の低下を招く。
お寺を維持するためには、金銭の目的の説法、労働力の確保のために妻帯も必要だったろうし、鴨川の川魚は貴重な食糧だったろう。
戒律うんぬんは言ってられない。
◇御霊神社と唱聞師
出雲寺には境内にあった御霊堂(遷都の際に大和から移されたそうである)
の役割が拡大する中で
やがて寺の性格を失い、御霊神社となっていく。
御霊神社は、天皇にあだなす亡霊を鎮める役割を担ったのである。
御霊神社祀られている怨霊のラインナップを見ていると不思議なことに気付く。
怨霊のビックネームの中になぜか吉備真備が混じっている。
彼は非業の死をとげたわけではないのに、
この答えが古地図(中昔京師地圖)にある。
上御霊神社の横に唱聞師村という唱聞師が集住する村がある。
※応仁の乱の頃の古地図。上御霊で戦(上御霊合戦)が勃発すののだが、西に川が流れ、南に相国寺の堀があるため、東方面で戦闘が開始され、唱聞師村は焼き払われる。唱聞師池という大きな池がある。洪水によって形成されたのだろうか?江戸時代の古地図にはすでになく場所は不明だが、京都市の洪水ハザードマップから旧京都産業大学付属高校の北東だったのではないかと想定する。その後、今出川の流路変更に伴い水抜きが可能になって消滅したのではないか?
ここで話がつながった。
つまり、
御霊神社の脇に住まう唱聞師たちが御霊会にかかわり、
彼らが祖の吉備真備を祭りあげたと考えられる。
※柳田国男は「唱聞師の話」の中で唱聞師と御霊会との関連性を指摘している。
出雲郷の地域には、後に北畠唱聞師と桜町唱聞師の2派があった。
おそらくは、それぞれ上御霊神社と下御霊神社に対応していたと思われる。
※上杉本 洛中洛外図屏風 の中の唱聞師村。屋根に天道花(豊作を祈る行事)を掲げる。入口に鳥居、天道花の横に瓢箪。呪術者集団の一面を見せる。前を歩いているのは「大原女」。煮炊きに使う薪を京中に運んできた。人間が運べる量はたかが知れている。牛ががんばっています。牛がなんだかカワイイ。一束いくらで売ったのだろうか?いっても5000円くらい?大原・京都は往復30km。過酷な仕事です。狂言にも「木六駄」という演目に薪を運ぶ牛が出てくる。
この唱聞師たちは陰陽師の一派ではあるが、安倍清明のようなエリート官僚ではない。
寺社に仕え租税も納めなくてもよいのだが、
それだけでは食べていけないので市井にでて生活費を稼がなくてはならない
唱聞師の性格は次第に呪術的なものから芸能・エンタメ的なものに変化していく。
おもしろくない呪術よりも芸能の方が庶民受けが良かったのだろう。
※唱聞師の芸能は、猿楽・能の原型といわれる。
(上杉本 洛中洛外図屏風 左義長の様子。道行く人の目をくぎ付けに。唱聞師によるものか?)
その反面、唱聞師の社会的地位の低下することとなる。
また、出雲阿国は歌舞伎の祖といわれるが、唱聞師の1つのアルキ巫女だった。
一説には出雲路幸神社のアルキ巫女であったとされる。
中世は律令制が崩壊し、神聖なものが俗なものに変質していく時代だが、
山背出雲郷の衰退は時代の縮図のようだ。
以上のことから、次の事が言えるのではないか。
東寺・西寺に比肩する規模の出雲寺を建立するほどの勢力を誇った出雲氏だったが、
平安末期には出雲寺は朽ち果て経済的困窮を極めた。
中には課税から逃れるために俗法師となる者も出たと思われる。
出雲氏の評判が失墜していたことは説話からもうかがえる。
出雲寺はやがて御霊神社に変わる。出雲族は氏寺を失ってしまうのである。
唱聞師が御霊会にかかわっていくのだが、中には出雲氏も含まれていたであろう。
やがて唱聞師は呪術集団から芸能集団へと性格を変え、エンタメ業に活路を見出す。
氏寺の消滅により求心力を失った出雲氏は歴史の表舞台から姿を消していくのである。
【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑧
山背出雲氏の発展
山背国で出雲氏は300人を超える勢力にまで成長するのですが、
この勢力拡大の裏に何があったのでしょうか。
◇出雲臣を称する人々
「山背国愛宕郡出雲郷計帳」によれば・・・
雲上里の8人の戸主(家の代表)は、全員「出雲臣」で
雲下里の12人の戸主のうち10名が「出雲臣」である。
この「臣」という呼称は何かというと・・・
律令体制に組した地方の有力豪族に贈られる称号だ。
山背に住んでいた出雲族が大和政権の支配体制の一角を占めていたことを意味する。
山背の出雲氏が「臣」の地位を獲得した背景には、
出雲氏が、壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)についたことが考えられる。
琵琶湖の西の三尾城を陥落させたことが知られている。
その功績により出雲狛は30年後に「臣」の地位を獲得している。
出雲狛の出自は明らかではないが、
出雲狛の出自は、山背国であったと考えるのが自然。
おそらく、
計帳の中の山背出雲氏の多くも大海人皇子につき「臣」の地位を手にしたのであろう。
出雲狛は、命を懸けて戦い30年越しで「臣」の地位を手に入れた。
「臣」の地位を手に入れるのは大変なことなのだ。
山背出雲氏の中には大和の平城京に下級官僚として出仕していた者もいたようである。
同志社大学 歴史資料館に面白い記事(「今出川校地と古代“出雲郷" 」)
があったので引用する。
雲下里計帳に出雲臣安麻呂という人物がみえる。彼は当時42才で、位階は大初位下、長屋王妃である吉備内親王の従者として平城京に出仕していたことが記されている。1988年、奈良市の平城京の長屋王邸跡から彼の名が記された木簡が出土。「无位出雲臣安麻呂 年廿九」とある。さきの計帳より13年前の彼の消息を語る同時代史料である。この時期、彼はまだ無位だった。木簡は続いて「上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五」と記す。彼は一年のうち320日も勤務し、さらにそのうち185日は夜勤もこなしていた。一昔前の猛烈サラリーマンである。しかし大初位下の位を得るまで10年余りかかっている。下級官人の昇進の実態がうかがえる。
山背出雲氏出身の出雲臣安麻呂という下級官僚は、
10年間、ブラック企業の社員も顔負けの激務をこなして
ようやく最低ラインの位をてにしたのである。
※平城京跡 山背からはるばる平城京まで出仕。下級官僚はつらいよ。wikipediaより
◇上出雲寺の大伽藍
このように涙なしでは語れない努力を重ねて
山背出雲氏は300人以上の規模の勢力を山背に築いたのだ。
出雲氏の発展の象徴が、「上出雲寺」の大伽藍だ。
「山城名勝志」によれば、
上出雲寺には南大門と中門があり、
中門を取り囲んで回廊がめぐらされ、
2階建ての金堂には裳階がつき、
講堂、食堂、鐘楼、経堂、三重塔が2基あったという。
仏塔を1基しかつくらない寺院がある中、
出雲寺は2基の仏塔を擁する(薬師寺式伽藍)。
出雲氏の繁栄を偲ばせる。
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んでようやく繁栄を手にした出雲氏。
しかし、その繁栄は長くは続かなかった・・・
次回は、出雲氏の没落の歴史を追ってみたい。
※参考文献
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる(洛北)」(学生社)
【追記】
出雲寺の遺品たち
◇上出雲寺・三重塔礎石
光琳の屋敷は荒れ果てて藪が茂り、薮内と呼ばれていた。
その藪の中に大きな石が残されていたそうだ。
ジモピーは、それを「夜泣き石」とよんでいた。
その後、烏丸通が薮内を通過するのにともない、
その石は売り払われてしまう。
その後、上出雲寺の三重塔の礎石ではないかということになり、
今は渉成園への建物(別館)の濡縁に利用されているという。
◇出雲路観音
かつて上御霊神社には観音堂があり、上出雲寺の遺品の観音が祭られていた。
その観音は後に念仏寺(現、出雲寺)に移されている。
【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑦
◇山背出雲氏の出自
京都の出雲路に住んでいた出雲族はどこからやってきたのでしょうか?
難題ですが、手掛かりはあります。
【山代郷の正倉】
ここで山背国から出雲国に目を転じてみます。
出雲国の中心地は、大和に近い意宇(おう)郡である。
出雲国国府つまり、今でいう県庁や合同庁舎が
意宇郡の大草郷にありました。
そして、正倉は国府に近い「山代郷」にありました。
古代人にとって穀物はお金に等しいので、正倉とは官営金庫です。
注目したいのが「山代」という地名です。京都の昔の名称です。
つまり、出雲国の中枢に「山代(京都)」という地名があったということです。
【丹波の氷上】
続いて、丹波に目をむけると
氷上という町がある。
ここには「賀茂郷」「葛野郷」(和名抄)という山背の地名に関連する土地がある。
現在の地図を見ても、
賀茂、葛野川、貴船神社と
京都にゆかりの深い地名・神社が散見される。
ここで記紀に描かれている氷上を見てみよう。
大和朝廷は、瀬戸内海を支配下に置き、
次のターゲットを出雲にしていた。
しかし、出雲振根は出雲の独立を望んでいた。
そこで、大和朝廷は、親ヤマト派の振根の弟に
出雲族の持つ神宝(祭器)を譲るよう持ち掛けた。
弟は兄が留守の時(九州の宗像に行っていたと思われる)、
神宝を渡してしまうのである。
それを知った振根は、激怒し弟を殺害する。
祭器は、政治を行う上で必要不可欠なもの。
祭器の譲渡は服属を意味するから、振根が激怒するのも当然。
大和朝廷は、内紛にかこつけて四道将軍の1人キビツヒコ(桃太郎)を派遣し、
振根を誅殺して出雲を支配下に入れるが、大和と出雲の関係は悪化する。
そんな折、仲介役になったのが、
氷上に住んでいたシャーマン・水上戸部である。
つまり、
氷上は山背との結び付きがあり
氷上は大和と出雲の橋渡しをしていたようだ。
【出雲大神宮】
古代山陰道の沿線にもう一つ、出雲とゆかりの深い神社がある。
この神社には磐座信仰・山体信仰があるので、
出雲族の神社であることに間違いない。
(出雲大神宮(元出雲)・ご神体の御蔭山が見える。wikipediaより)
以上をまとめると・・・
出雲の中心地に山背の地名があり、山背には出雲族の大規模な植民地がある。
そして、山背と出雲を結ぶ古代山陰道沿いに山背・出雲の地名が点在する。
つまり、
出雲の意宇に住んでいた出雲族が、山陰道を通って山背にやってきたということです。
さらにいえば、
出雲の意宇出身の出雲族は、
山背からさらに南の大和の中心地まで
進出していた可能性があるのです。
◇山背出雲族の役割
山背出雲氏は、大和と出雲の中間地に住み、
出雲国の正倉、三輪山麓の正倉の管理にかかわっていた可能性がある。
おそらく、
振根の弟や氷上戸部のように親ヤマト派として
出雲と大和の橋渡し的な活動していたのではないでしょうか。
一族の誇りか? 一族の存続か?
出雲本家とヤマトの間で、
難しい立ち位置にいたのかもしれない。
次回は、山背出雲氏が勢力拡大し、
山背が、出雲族最大の植民地にまで成長する過程を見てみましょう。
※参考文献
森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北)」(学生社)