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京都痕跡町歩き

街角にひそむ歴史の痕跡を探して

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑩(完)

 

 

沈む出雲氏・昇る賀茂氏

 

◇山城賀茂氏は天津族!?

 

山背の開拓者・出雲氏は衰退していく中、

 

賀茂氏勢力拡大に成功する。

 

勢力拡大の要因の1つが、

 

平安京遷都の際に王城守護の地位を手に入れたことだろう。

 

上賀茂・下鴨神社は、伊勢神宮に次ぐ社格を与えられ、

 

他には伊勢神宮にしかいない斎宮(皇女が神に仕える宮)もおかれる。

 

ほとんど天皇家の神社としての扱いを受けるのだ

 

もちろん社領も与えられ経済面も盤石だ。

 

令義解」では、

・伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造斎神は、天神(あまつかみ)

・大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神は、地神(くにつかみ)

と記されている。

 

つまり、

 

山城の賀茂族は天津族」とされているのだ。

 

天津族だから天皇家に優遇されるのは当然とも考えられる。

 

◇山城賀茂氏出雲族!?

 

しかし・・・

 

賀茂氏はもとは出雲氏と同じ出雲族であった。

 

その証拠がいくつかある。

 

【証拠1】

 

上賀茂は神山」を「下鴨は御蔭山」をそれぞれの信仰の対象としている。

 

賀茂氏の信仰の本質は、山体・磐座信仰である。

 

京都三大祭りの1つ、葵祭も磐座信仰がベースにある。

 

先に述べたが、山体・磐座信仰は出雲族の特徴の1つだ

 

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(賀茂川より「神山」を望む。古代人は柔らかな山容を好んだようだ。)

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 (高野川から御蔭山を望む。分かりにくいが中央の小高い山。しばしば、下鴨神社上賀茂神社から分離されたと説明されるが、異なる神奈備山を頂いている事実をどう説明すればよいだろうか。はじめから別々の神社だったといえないか。)

【証拠2】 

 

山城国風土記逸文」によれば、

 

山城賀茂氏の祖は、葛城鴨氏としており、

 

葛城鴨氏ヒトコトヌシ(オオクニヌシの息子)を祀っている。

 

【証拠3】

 

下鴨神社の本殿の前の「言社」という不思議な摂社がある。

 

本社の拝殿前に摂社が7つ並ぶのは珍しい光景だ。

 

下鴨神社が編集している「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」という

 

本をパラパラ読んでみたが、

 

言霊信仰からみたいな趣旨の説明があるものの

 

はっきりとした由来は分からずじまいだった。

 

本当に「すべて」が書かれているのだろうか。

 

言社は7つの小社で構成されており、祭神はすべてオオクニヌシなのである。

 

オオクニヌシには少なくとも7つの名前がある。

 

多くの名前がある理由は、

 

出雲が勢力を拡大する中で土着の神様を統合していった結果と考えられている。

 

名前の多さは、神力のバロメータの1つ。

 

7つの社はそれぞれの名前に対応している。

 

拝殿前に出雲の主神をご丁寧に七柱も祭る念の入れ様

 

賀茂氏出雲族の主神を手厚く祀っているのである。

 

言社という名前も、オオクニヌシの息子のヒトコトヌシを思わせる。

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 (本殿前の言社案内。「えと詣」となっているので、祭神が縁結びで有名な色男の大国主であることを知っている人は少ないだろう。縁結びの願掛けは相生社より言社がいいのでは??ちなみに相生社の祭神は、宇宙を生みだした滅茶苦茶エライ神様です。God of God。拝むときは粗相のないように(笑))

 

【証拠4】

 

下鴨神社の社伝も、出雲氏賀茂氏同祖であることを認めているところだ。

 

以上のことから

 

賀茂氏は、もともとは出雲族であったといって間違いないだろう。

 

では・・・

 

なぜ出雲族だった賀茂氏天孫族として扱われたのか?

 

そこには平安遷都の際の桓武天皇の心理状態が影響していると思われる。

 

桓武天皇は政敵を次々と追い落とし天皇の地位を手に入れた。

 

無実の罪で殺された多くの屍の上に築かれた政権なのです。

 

即位後、身近の人々が1年に1人位のペースでバタバタと死に

 

水害等の天変地異が次から次へと起き、東北では蝦夷の反乱が勃発。

 

桓武天皇は、思い当たる節があったのでしょう、

 

政敵の怨霊の仕業だと思い、長岡から逃げ出すのだった。

 

遷都の速度は尋常ではなく、決定から遷都まで週間!!

 

桓武天皇の恐怖心は相当なもので、ほとんどノイローゼ状態だ。

 

次に呪われるのは朕やもしれぬ。やばい。やばい。」

 

と急いでいるのである。

 

遷都の際に重要なのが王城守護の祭神の決定である。

 

都の鬼門を封じる祭神を決めなければならない。

 

しかし、その頃、鬼門にあったのは出雲寺・鴨社などいずれも出雲族ゆかりの寺社

 

天津族たる天皇家の王城守護を国津神に任せるのはどうにも具合がわるい。

 

さりとて出雲族の神を移動させて天津族の神をまつり直すと

 

地祇神の怒りを買いさらなる災いが起こるかもしれない。

 

苦肉の策として賀茂氏を天津族に組み込み、

 

上賀茂・下鴨神社天皇家の守護としての地位を与えたと考えられる。

 

※村井康彦「出雲と大和」、「世界文化遺産 賀茂御祖神社: 下鴨神社のすべて」参照

 

令義解では、

 

山城の鴨天神(あまつかみ)、葛木の鴨地神(くにつかみ)」

 

と記載されている。

 

同じ鴨氏がなぜ天神と地神に分かれるか

 

と疑問に感じるが、このように考えれば合点がいく。

 

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(下鴨神社HPより。言社の位置に注目。中門正面・祭神に準じる配置)

 

山城賀茂氏出雲族なので、本来はオオクニヌシを祭神とすべきところだが、

 

王城守護としての立場上、オオクニヌシを祭祀の中心にもってくることはできない。

 

拝殿前」という言社の配置は、その辺の心理をよく表しており、

 

絶妙なバランス感覚だと密かに想像して楽しんでいる。

 

同じ出雲族ではありながら、

 

天皇家から支援を受けられない出雲氏は没落し、

 

天孫族出雲族の二面性をうまく使い分けながら天皇家から支援を受けた賀茂氏

 

現在にいたるまで繁栄を享受するのであ

 

桓武天皇の代で、天武系の皇統から天智系の皇統へとシフトするのだが、

 

両氏に明暗が生じた深淵には、

 

天武系の皇統VS天智系の皇統の対立構造があったのではないかと想像する。

 

出雲氏天武天皇側につき勢力を伸ばしてきたからだ。

 

◇山背出雲氏の末裔

 

賀茂氏に入れ替わるように京都から姿を消す出雲族だが、

 

それでもプライドをもって生きた者もいた。

 

京で流行していた謡に「雲太、和二、京三」というのがある。 

 

大きな建物ベスト3を口ずさむものだ。

 

出雲大社が1番東大寺が2番、大極殿が3番としている。

 

おそらく、出雲氏の末裔が歌い始めたのだろう。故地出雲への憧憬と自負を感じる。

 

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 ※「口遊」(源為憲著) 平安時代に貴族の子供のために書かれた教科書。「雲太・和二・京三」の記載が見られる。「九九」も掲載されている。当時は情報の伝達・蓄積・複製の方法が限られていた時代だったので「学問=暗記」。口ずさんで暗記したのだ。学者が読んでも難しい部分もあるという。恐るべし、平安時代の小学生。

 

 

また、「出雲郷」という地名は消えてしまったが、

 

出雲路」という地名は1200年以上に渡って継承されている。

 

地名がうつろいやすいことは平成の大合併からも容易に想像がつく。

 

これだけ長い間地名が残るのは

 

そこに住む人々が地名に特別な強い思い入れがあったからに違いない。

 

出雲へと続く道

 

遠い異国で出雲を思い続ける出雲氏の末裔が、

 

大切に守り続けてきた地名ではないだろうか。

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 ※夕暮れ迫る賀茂川(出雲路橋たもとから)

 

出雲氏の出雲井於神社は,

 

賀茂氏下鴨神社に吸収され、

 

本殿の傍らで静かにたたずんでいる。

 

敗者の神様も消さずに残すのは日本文化のいいところです。

 

そんな出雲井於神社にも少ないながらも熱心に参拝する人がいる。

 

氏子だろうか。

 

山背出雲氏の末裔は今もいるのかもしれない。

 

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑨

消えゆく山背出雲氏

 

◇出雲郷からの逃亡者

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳によれば、

 

かなりの数の女性が出雲郷から逃亡した記録が残っている。

 

なぜ逃げる必要があったのだろうか??

 

原因の1つに洪水被害(付随する疫病)があったのではないかと想像する。

 

出雲路付近は、風光明媚な賀茂川に近く、

 

電通島津製作所の保養施設のある人気スポットだが、

 

土地が突然下がる洪水常習ポイントで、

 

治水技術が未熟な古代から近世にかけて

 

洪水に悩まされてきた。

 

秀吉がつくつた堤防(御土居)もこの辺りは二重にして強化しているくらいだ。

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 (出雲路橋西側・不自然な家並は2重の堤(御土居)の痕跡だ)

 

他には、

 

より労働条件のいい土地への移動(三世一身法など口分田制度が崩壊する中でどの豪族も

 

労働力を求めただろう)、賀茂氏秦氏の勢力拡大重税化などが考えられる。

 

いずれも想像の域は出ないが、

 

730年頃には既に山背出雲族の勢力に陰りが見え始めていたのだ。

 

◇ナマズ汁と破戒僧

 

宇治拾遺物語」にナマズに転生した父親をたべた上出雲寺の別当の話がでている。

 

話の粗筋はこうだ。

 

 平安の末期、上出雲寺は古くなっており、ろくに修理もしていなかったため、御堂も傾いていた。

 ある日のこと出雲寺の別当(住職)浄覚は、夢枕で死んだ父親から次の話を聞いた。

「明後日、大風が吹いてこの寺は倒れてしまうだろう。その時、ナマズに転生した私は寺の瓦から這い出てもがき苦しむ。そこでお願いだ。ナマズになった私を鴨川にはなしてはくれまいか。そうしたらのんびりと琵琶湖で余生がくらせる。」

これを聞いて浄覚は目を覚まし、事の次第を妻に告げた。

 その後、夢のお告げ通り、大風が吹き寺が崩れ、瓦の下からナマズがでてきてもがき苦しんでいた。浄覚は1メートルもあるマルマルとした魚に喜び、鉄棒でナマズの頭を一突きにした。それでもナマズは苦しむので子供に鎌をもってこさせ、エラを掻き切って家に持ち帰った。

 妻はなんで殺してしまったのと抗議したが、浄覚は「こんな立派なナマズは放っておいたら他人に取られて喰われてしまう。どうせ喰われるなら、息子や孫に喰われるのが親父様も本望だろう」と取り合わず、妻にナマズ汁を作らせ、「さすがに親父様の肉だ。そこらへんの鯰とは違う。うまい。うまい」と夢中になって食べていたのである。

 しかし、夢中のあまり喉にナマズの骨を詰まらせて嗚咽の果てに死んでしまうのであった。(浄覚の父親も妻帯。ナマズに転生したのも、その報いか? )

 

琵琶湖の (~゜・_・゜~)

 琵琶湖には3種類の鯰がいる、そのうち

 ・イワトコナマズは美味で蒲焼は、ステーキ・トロ並みのおいしさなのだそうだ。

 ・一方、1mを超えるビワコオオナマズは、油が多くめちゃくちゃまずいらしい。

  市場に出してもキロ20円でも売れなかったようだ。

  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/25/3/25_211/_pdf

 ・私たちも外来種のナマズを日ごろ食べています。のり弁の白身魚とかです。

 ・浄覚が食べたのは大きさからしてビワコオオナマズ

 「さすがに親父様の肉はうまい」といったのは、

  ビワコオオナマズは不味いという認識があったからでしょうか。

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  (ビワコオオナマズブラックバスをも捕食する外来種スイパー。wikipediaより)

 

 

この話から分かることは、

 

平安末期、出雲寺は荒廃していたということだ

 

今昔物語にもそのような事が書かれているので間違いないだろう。

 

そして、出雲寺の住職は妻子持ちで肉食までする破戒僧として描かれているのである。

 

大宝律令下では、僧侶は、肉食、妻帯、金銭を得るための説法が厳しく禁止されていた。

この説話からは、戒律を守らない俗法師に対する蔑みが伝わってくる。

 

経済的困窮のあまり俗法師になった出雲氏に対する軽侮から生じた説話だろう。

 

※俗法師については、喜田貞吉 俗法師考参照

 

しかし、出雲寺の住職にはどうしようもない事情があったのかもしれない。

 

戸籍が示すように出雲郷の人口減少は氏子の減少を意味し氏寺の経済力の低下を招く。

 

お寺を維持するためには、金銭の目的の説法、労働力の確保のために妻帯も必要だったろうし、鴨川の川魚は貴重な食糧だったろう。

 

戒律うんぬんは言ってられない。

 

御霊神社と唱聞師

 

出雲寺には境内にあった御霊堂(遷都の際に大和から移されたそうである)

 

の役割が拡大する中で

 

やがて寺の性格を失い、御霊神社となっていく

 

御霊神社は、天皇にあだなす亡霊を鎮める役割を担ったのである。

 

御霊神社祀られている怨霊のラインナップを見ていると不思議なことに気付く。

 

怨霊のビックネームの中になぜか吉備真備が混じっている。

 

彼は非業の死をとげたわけではないのに、

 

なぜ吉備真備御霊神社に祭られているのか?

 

この答えが古地図(中昔京師地圖)にある。

 

上御霊神社の横に唱聞師村という唱聞師が集住する村がある。

 

 

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 ※応仁の乱の頃の古地図。上御霊で戦(上御霊合戦)が勃発すののだが、西に川が流れ、南に相国寺の堀があるため、東方面で戦闘が開始され、唱聞師村は焼き払われる。唱聞師池という大きな池がある。洪水によって形成されたのだろうか?江戸時代の古地図にはすでになく場所は不明だが、京都市の洪水ハザードマップから旧京都産業大学付属高校の北東だったのではないかと想定する。その後、今出川の流路変更に伴い水抜きが可能になって消滅したのではないか?

 

 

唱聞師とは民間の陰陽師のことで、陰陽師の祖は吉備真備

 

ここで話がつながった。

 

つまり、

 

御霊神社の脇に住まう唱聞師たちが御霊会にかかわり、

 

彼らが祖の吉備真備を祭りあげたと考えられる。

 

柳田国男は「唱聞師の話」の中で唱聞師と御霊会との関連性を指摘している。

 出雲郷の地域には、後に北畠唱聞師桜町唱聞師の2派があった。

 おそらくは、それぞれ上御霊神社下御霊神社に対応していたと思われる。

 

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※上杉本 洛中洛外図屏風 の中の唱聞師村。屋根に天道花(豊作を祈る行事)を掲げる。入口に鳥居、天道花の横に瓢箪。呪術者集団の一面を見せる。前を歩いているのは「大原女」。煮炊きに使う薪を京中に運んできた。人間が運べる量はたかが知れている。牛ががんばっています。牛がなんだかカワイイ。一束いくらで売ったのだろうか?いっても5000円くらい?大原・京都は往復30km。過酷な仕事です。狂言にも「木六駄」という演目に薪を運ぶ牛が出てくる。

 

この唱聞師たちは陰陽師の一派ではあるが、安倍清明のようなエリート官僚ではない。

 

寺社に仕え租税も納めなくてもよいのだが、

 

それだけでは食べていけないので市井にでて生活費を稼がなくてはならない

 

唱聞師の性格は次第に呪術的なものから芸能・エンタメ的なものに変化していく。

 

おもしろくない呪術よりも芸能の方が庶民受けが良かったのだろう。

 

※唱聞師の芸能は、猿楽・能の原型といわれる。

 

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(上杉本 洛中洛外図屏風 左義長の様子。道行く人の目をくぎ付けに。唱聞師によるものか?)

 

その反面、唱聞師の社会的地位の低下することとなる

 

また、出雲阿国歌舞伎の祖といわれるが、唱聞師の1つのアルキ巫女だった

 

一説には出雲路幸神社のアルキ巫女であったとされる。

 

中世は律令制が崩壊し、神聖なものが俗なものに変質していく時代だが、

 

山背出雲郷の衰退は時代の縮図のようだ。

 

以上のことから、次の事が言えるのではないか。

 

 

東寺・西寺に比肩する規模の出雲寺を建立するほどの勢力を誇った出雲氏だったが、

 

平安末期には出雲寺は朽ち果て経済的困窮を極めた。

 

中には課税から逃れるために俗法師となる者も出たと思われる。

 

出雲氏の評判が失墜していたことは説話からもうかがえる。

 

出雲寺はやがて御霊神社に変わる。出雲族は氏寺を失ってしまうのである。

 

唱聞師が御霊会にかかわっていくのだが、中には出雲氏も含まれていたであろう。

 

やがて唱聞師は呪術集団から芸能集団へと性格を変え、エンタメ業に活路を見出す。

 

氏寺の消滅により求心力を失った出雲氏は歴史の表舞台から姿を消していくのである。

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑧

山背出雲氏の発展

 

山背国で出雲氏は300人を超える勢力にまで成長するのですが、

 

この勢力拡大の裏に何があったのでしょうか。

 

◇出雲臣を称する人々

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳」によれば・・・

 

雲上里の8人の戸主(家の代表)は、全員「出雲臣」で

雲下里の12人の戸主のうち10名が「出雲臣」である。

 

この「」という呼称は何かというと・・・

 

律令体制に組した地方の有力豪族に贈られる称号だ。

 

山背に住んでいた出雲族大和政権の支配体制の一角を占めていたことを意味する。

 

山背の出雲氏が「臣」の地位を獲得した背景には、

 

出雲氏が、壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)についたことが考えられる。

 

壬申の乱の際に「出雲狛」なる者が、大海人皇子方につき、

 

琵琶湖の西の三尾城を陥落させたことが知られている。

 

その功績により出雲狛は30年後に「臣」の地位を獲得している。

 

出雲狛の出自は明らかではないが、

 

出雲狛の出自は、山背国であったと考えるのが自然。

 

おそらく、

 

計帳の中の山背出雲氏の多くも大海人皇子につき「臣」の地位を手にしたのであろう。

 

出雲狛は、命を懸けて戦い30年越しで「臣」の地位を手に入れた。

 

「臣」の地位を手に入れるのは大変なことなのだ。

 

山背出雲氏の中には大和の平城京に下級官僚として出仕していた者もいたようである。

 

同志社大学 歴史資料館に面白い記事(「今出川校地と古代“出雲郷" 」)

 

があったので引用する。

 

 

雲下里計帳に出雲臣安麻呂という人物がみえる。彼は当時42才で、位階は大初位下長屋王妃である吉備内親王の従者として平城京に出仕していたことが記されている。1988年、奈良市平城京長屋王邸跡から彼の名が記された木簡が出土。「无位出雲臣安麻呂 年廿九」とある。さきの計帳より13年前の彼の消息を語る同時代史料である。この時期、彼はまだ無位だった。木簡は続いて「上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五」と記す。彼は一年のうち320日も勤務し、さらにそのうち185日は夜勤もこなしていた。一昔前の猛烈サラリーマンである。しかし大初位下の位を得るまで10年余りかかっている。下級官人の昇進の実態がうかがえる。

 

 

山背出雲氏出身の出雲臣安麻呂という下級官僚は、

 

10年間、ブラック企業の社員も顔負けの激務をこなして

 

ようやく最低ラインの位をてにしたのである。

 

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 ※平城京跡 山背からはるばる平城京まで出仕。下級官僚はつらいよ。wikipediaより

 

 

◇上出雲寺の大伽藍

 

このように涙なしでは語れない努力を重ねて

 

山背出雲氏は300人以上の規模の勢力を山背に築いたのだ。

 

出雲氏の発展の象徴が、「上出雲寺の大伽藍だ。

 

「山城名勝志」によれば、

 

上出雲寺には南大門と中門があり、

 

中門を取り囲んで回廊がめぐらされ、

 

2階建ての金堂には裳階がつき、

 

講堂、食堂、鐘楼、経堂、三重塔が2基あったという。

 

仏塔を1基しかつくらない寺院がある中、

 

出雲寺は2基の仏塔を擁する(薬師寺式伽藍)。

 

出雲氏の繁栄を偲ばせる。

 

耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んでようやく繁栄を手にした出雲氏

 

しかし、その繁栄は長くは続かなかった・・・

 

次回は、出雲氏の没落の歴史を追ってみたい。

 

※参考文献

森浩一「京都の歴史を足元からさぐる(洛北)」(学生社)

 

【追記】

 

出雲寺の遺品たち

 

◇上出雲寺・三重塔礎石

 

上御霊神社の近くに尾形光琳屋敷があった。

光琳の屋敷は荒れ果てて藪が茂り、薮内と呼ばれていた。

その藪の中に大きな石が残されていたそうだ。

ジモピーは、それを「夜泣き石」とよんでいた。

その後、烏丸通が薮内を通過するのにともない、

その石は売り払われてしまう。

その後、上出雲寺の三重塔の礎石ではないかということになり、

今は渉成園への建物(別館)の濡縁に利用されているという。

 

出雲路観音

 

かつて上御霊神社には観音堂があり、上出雲寺の遺品の観音が祭られていた。

その観音は後に念仏寺(現、出雲寺)に移されている。

 

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑦

 

◇山背出雲氏の出自

 

京都の出雲路に住んでいた出雲族はどこからやってきたのでしょうか?

 

難題ですが、手掛かりはあります。

 

 

【山代郷の正倉】

 

ここで山背国から出雲国に目を転じてみます。

 

出雲国の中心地は、大和に近い意宇(おう)郡である。

 

出雲国国府つまり、今でいう県庁や合同庁舎が

 

意宇郡の大草郷にありました。

 

そして、正倉は国府に近い「山代郷」にありました。

 

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古代人にとって穀物はお金に等しいので、正倉とは官営金庫です。

 

注目したいのが「山代」という地名です。京都の昔の名称です。

 

つまり、出雲国の中枢に「山代(京都)」という地名があったということです。

 

丹波の氷上】

 

続いて、丹波に目をむけると

 

京都と出雲国府を結ぶ古代山陰道沿いに、

 

氷上という町がある。

 

ここには「賀茂郷」「葛野郷」(和名抄)という山背の地名に関連する土地がある。

 

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現在の地図を見ても、

 

賀茂葛野川貴船神社

 

京都にゆかりの深い地名・神社が散見される。

 

ここで記紀に描かれている氷上を見てみよう。

 

大和朝廷は、瀬戸内海を支配下に置き、

 

次のターゲットを出雲にしていた。

 

しかし、出雲振根は出雲の独立を望んでいた。

 

そこで、大和朝廷は、親ヤマト派の振根の弟

 

出雲族の持つ神宝(祭器)を譲るよう持ち掛けた。

 

弟は兄が留守の時(九州の宗像に行っていたと思われる)、

 

神宝を渡してしまうのである。

 

それを知った振根は、激怒し弟を殺害する。

 

祭器は、政治を行う上で必要不可欠なもの。

 

祭器の譲渡は服属を意味するから、振根が激怒するのも当然。

 

大和朝廷は、内紛にかこつけて四道将軍の1人キビツヒコ(桃太郎)を派遣し、

 

振根を誅殺して出雲を支配下に入れるが、大和と出雲の関係は悪化する。

 

そんな折、仲介役になったのが、

 

氷上に住んでいたシャーマン・水上戸部である。

 

つまり、

 

氷上は山背との結び付きがあり

 

氷上は大和と出雲の橋渡しをしていたようだ。

 

【出雲大神宮】

 

古代山陰道の沿線にもう一つ、出雲とゆかりの深い神社がある。

 

徒然草にも登場する亀岡の「出雲大神宮」だ。

 

この神社には磐座信仰・山体信仰があるので、

 

出雲族の神社であることに間違いない。

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 (出雲大神宮(元出雲)・ご神体の御蔭山が見える。wikipediaより)

 

以上をまとめると・・・

 

出雲の中心地に山背の地名があり、山背には出雲族の大規模な植民地がある。

 

そして、山背と出雲を結ぶ古代山陰道沿いに山背・出雲の地名が点在する。

 

つまり、

 

出雲の意宇に住んでいた出雲族が、山陰道を通って山背にやってきたということです。

 

さらにいえば、

 

大和の三輪山にある正倉の管理人は、意宇宿禰でした。

 

出雲の意宇出身の出雲族は、

 

山背からさらに南の大和の中心地まで

 

進出していた可能性があるのです。

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◇山背出雲族の役割

 

山背出雲氏は、大和と出雲の中間地に住み、

 

出雲国の正倉、三輪山麓の正倉の管理にかかわっていた可能性がある。

 

おそらく、

 

振根の弟や氷上戸部のように親ヤマト派として

 

出雲と大和の橋渡し的な活動していたのではないでしょうか。

 

一族の誇りか 一族の存続か?

 

出雲本家とヤマトの間で、

 

難しい立ち位置にいたのかもしれない。

 

次回は、山背出雲氏が勢力拡大し、

 

山背が、出雲族最大の植民地にまで成長する過程を見てみましょう。

 

 

 ※参考文献

森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北)」(学生社)

【京都と出雲氏】 消えた出雲族を探して⑥

 

 京都の出雲族

 

奈良時代の住民台帳

 

京都にも出雲族がいたのでしょうか??

 

この問いの答えは、

 

正倉院に保管されている書物にありました。

 

ナイス!!正倉院!!

 

山背国愛宕郡出雲郷計帳という

 

税金を徴収するための住民台帳です。

 

726年の京都の出雲郷にいた住人、

 

つまり、出雲族の名前が記録されてい

 

そこには300人以上出雲族の名前が記されている。

 

これほど多くの出雲族が住んだ記録はなく、

 

山背が出雲族大規模な植民地だったことが分かります。

 

◇京都の出雲族の居住地

 

では、京都のどのあたりに住んでいたのでしょうか??

 

台帳には、雲上里雲下里に分かれていることから、

 

拠点が2箇所に分かれていたことが分かる。

 

骨肉の争いでもしたのかな??

 

そして、江戸時代中期の「山城名勝誌」によれば、

 

出雲寺という出雲族の氏寺があり、

 

上出雲寺と「下出雲寺に分かれていたという。

 

雲上里と雲下里のそれぞれの氏寺であったと思われる。

 

さらに、「相国寺の北西に出雲寺がある」と書かれている。

 

上御霊神社から出雲寺のものとみられる瓦が出土し、

 

また周辺から製鉄の痕跡集落跡が発見されていことから

 

上出雲寺は今の上御霊神社付近にあったと思われる。

 

上御霊神社付近の発掘の成果

www.sankei.com

上京区 史蹟と文化 古代出雲郷の発掘調査】

http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000083/83714/No.30.pdf

 

 

そして、上御霊神社の東の賀茂川沿いに「出雲路」があり、

 

上御霊神社の北にある大谷大学付近からも集落跡が見つかっている。

 

森浩一氏は、

 

下出雲寺と雲下里は、雲上里より南にあり、

 

出雲路幸神社」が雲上里と雲下里の境界にあたっていたのではないかと推測する。

 

(角川の地名辞典によれば、賀茂川を挟んで西を雲上里、東を雲下里としていますが、いわゆる「鴨川付け替え説」を前提にしているので旗色が悪そうだ。)

 

出雲路幸神社」は道祖神で、

 

道祖神は交通の要衝や村の境界におかれることが多いからだ。

 

古来、災いは道を通じて入ってくると信じられていたため、

 

悪霊が入ってくることを「さえ」ぎるために、

 

集落の境界に石を置いて「塞(さえ)の神」をとして祀った。

 

古事記

 

イザナギが死の世界からゾンビに追われて逃げ帰るときに

 

大岩で道を遮って追っ手からのがれる場面が描かれている。

 

大岩が現世と黄泉の国を分断するのですが、これも塞の神と同じ発想です。

 

出雲路幸神社」の「幸(さい)」は、もともとは「塞」であっただろう。

 

しかし、縁起のいい漢字にあて直したのだ。

 

「祝(ほまれ)山」という地名があるが、

 

もとは「屠(ほふり)やま」つまり、「死体をすてる山」を意味していたが、

 

縁起がわるいので「祝」という文字を当てたりします。それと同じです。

 

塞の神」は、町の境界・道の分岐点におかれることから、

 

旅の安全を祈願する「道祖神信仰」(道案内のサルタヒコ信仰)と融合し、

 

サルタヒコアメノウズメの男女一対の祭祀形態を経て、

 

性愛的な要素が加わります。

 

ちなみに「出雲路幸神社」の「石神」は「・・・」の形です。

 

話がそれました・・・話をもとに戻します。

 

山州名跡志」には、

 

下出雲寺は、下御霊神社にあったとする。

 

昔の下御霊神社は「京極の東、一条の北」にあったとするので、

 

雲下里は、現在の京極小学校付近を拠点としていたのだろう。

 

以上の話をまとめると、

 

「雲上里」は、大谷大学から同志社大学までの加茂川右岸に広がり

 

「雲下里」は、同志社大学の南・京極小学校付近にあったと思われる。

 

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 (中古京師内外地図 相国寺・現同志社大学の北に「上出雲寺」の表記が見える。)

 

しかし・・・

 

出雲族の居住地は、もう少し広範囲に住んでいた可能性がある。

 

というのは・・・

 

下鴨神社摂社には「出雲井於神社」があり、

 

さらに、

 

下鴨神社の東側を流れる高野川を渡ってやや上流にさかのぼると

 

出雲高野神社」があるからだ。

 

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 ※京都一怖いと噂される?崇道神社・敷地内に出雲高野神社がある。写真右の社が出雲高野神社です。小さっ!!崇道神社だけでなくこちらにも注目してほしい。

 

出雲井於神社はの祭神は、スサノオ出雲族の始祖である。

 

また、出雲高野神社の祭神は不明であるものの、

 

出雲高野神社の近くに「伊多太(いたた)神社という出雲系の神社がある。

 

祭神は、伊多太大神という記紀にでてこない謎の神様。

 

上高野で独自に生まれた神様であり、

 

上高野付近で最古の神社といわれるのも頷ける。

 

「いたた」は出雲系神社の神事・「湯立て」神事、

 

または「たたら製鉄」にも通ずるとのことだ。

 

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 ※伊多太神社。こちらも崇道神社の境内にある。

 

上高野周辺にも出雲族が進出していた可能性がたかい。

 

そうすると・・・

 

古代山背では、

 

鴨川の西岸一体・下鴨一体・高野川にそって上高野付近まで

 

と非常に広範囲に渡って出雲族の勢力が及んでいた可能性がある。

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

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出雲族が住んだ場所は、いずれも水辺に近い。

 

洪水などのリスクをとっても、水辺に住んだ理由は何だろうか? 

 

単純に考えると

 

出雲族が進出した頃、

 

 

稲作技術をもたない縄文人が北白川などの微高地に住んでいて、

 

川沿いにしか住む場所が無かったうえ、稲作技術をもつ出雲族にとっても都合が良かったのだろう。

 

それに加え宗教的意味もあったかもしれない。

 

出雲族と水」には切っても切れない何かがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→蛇→龍神→水」妄想が膨みます。

 

 

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※松ヶ崎橋より。高野川水系沿いに出雲族の痕跡が残る

 

また、偶然だろうか、

 

出雲族の神社は、御霊会にかかわっている。

(崇道神社(出雲高野神社の本社)・上御霊神社下御霊神社)

 

出雲族と御霊・怨霊」にも何か繋がりがありそうだ。

 

出雲→大国主→大物主→崇神→怨霊」これまた妄想が膨らむ。

 

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 ※崇道神社境内・森の中の長い参道奥に崇道天皇(早良親王)の怨霊が鎮座する。

 

今後の宿題です。

 

出雲族が居住を始めた時期

 

いつごろ出雲族は京都に進出したのでしょう?

 

ヒントになるのが、「出雲井於神社」と「山城国風土記逸文」だ。

 

山城国風土記逸文」によれば・・・

 

賀茂氏の始祖、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)は、

 

大和の葛城から山城の下鴨の地にやって来た。

 

娘のタマヨリヒメは下鴨の川から流れてきた矢を拾い、それがきっかけで

 

賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト以下「ワケイカヅチ」)を身ごもった。

 

としています。

 

これは・・

 

大和葛城に住んでいた賀茂氏の先祖が、京都の下鴨に移動してきたことを意味します。

 

おそらく、いい農地を探して移動してきたのでしょう。

 

治水・灌漑技術の乏しい古代において、日照りが続くと作物がダメになってしました。

 

古代人は、天からの恵みの雨をひたすら待つしかなく、

 

雷は、雨の前兆としてありがたい存在でした。

 

賀茂族の神は「賀茂別雷命」ですが、

 

」を祀る賀茂氏は、農耕部族と考えられます。

 

北野神社のある北野は賀茂氏の領地になりますが、

 

北野神社の菅原道真は「雷神」です。北野神社ではをお祭りしていますが、

 

これは雨ごいの際の生贄の儀式に由来します。

 

※藤沢駒次郎「京のくらしと出来事」参照

 

農民にとって一番大切な牛をささげることで雨の恵みを願ったのです

(野蛮な習俗ということで朝廷によって度々禁止令がでました)。

 

賀茂氏と農業」のつながりを感じさせます。

 

殺牛農耕祭祀

 豊作を祈願して牛を殺す文化は、渡来系種族がもたらしたといわれる。

 殺牛祭祀の風習を持つ渡来人と葛城鴨氏との関連性を指摘されている。

 (平林章仁「謎の古代豪族 葛城氏」参照)

 

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

謎の古代豪族 葛城氏(祥伝社新書326)

 

 

 

 

また、玉依姫の妊娠の話は、

 

下鴨付近に住んでいた「土着勢力と賀茂氏との結合」を意味している思われます。

 

土着勢力はおそらく、出雲族です。

 

川辺にいる娘を妊娠させる犯人は、出雲族の神様と相場が決まっています。

 

出雲井於神社は、別名「柊社」といい、開き神=開拓神を意味しています。

※「京都市の地名」(平凡社)参照

 

また、

 

延喜式神名帳」には、

 

本社の下鴨神社より前に出雲井於神社が記載されていますが、

 

摂社が本社よりも前にに記載される例はほぼありません。

 

このことは、

 

出雲井於神社が下鴨神社ができる前から出雲族によって祀られていて

 

その後、賀茂氏が土着の出雲氏と血縁関係を結び下鴨神社を祀ったといえる。

 ※林屋氏の説を参照

京都 (岩波新書)

京都 (岩波新書)

 

 

※一方、門脇氏は、賀茂氏の北上説に疑問を呈している。

 

京の鴨川と橋―その歴史と生活

京の鴨川と橋―その歴史と生活

 

 

そして、

 

賀茂氏葵祭は544年に始められたという記録がある。

 

そうすると・・・

 

出雲族は、544年よりも前から山城で活動していることになる。

 

また・・・

 

出雲高野神社のある高野では、

 

はじめ出雲族が居住していたが、

 

後から近江から小野氏(小野妹子で有名な一族)が進出してくる。

 

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小野毛人墓誌(崇道神社蔵、国宝)高野出雲神社のすぐそばの崇道神社から小野妹子の孫・小野毛人の墓標が見つかり、国宝に指定されています。

 

小野氏が勢力を拡大するのはC・7C

 

内藤湖南 近畿地方に於ける神社 参照

 

出雲氏はどんなに遅くとも6C・7Cには山背で活動していたのだ。

 

そして・・・

 

出雲井於神社は、井戸を祀る神様(もとは水源を祀っていたと思われる)

 

このような祭祀形態は珍しく、原始宗教としての性格が強いこと

 

下鴨からは弥生の集落跡が見つかっていることなどから

 

出雲族弥生時代ごろには山背に住みついていた可能性がある。

 

出雲族は、賀茂氏・小野氏が京都に進出するずっと前から山背に住んでいた。

 

山背の国の開拓者といえるでしょう

 

今回は、京都の出雲族の活動範囲と住み始めた時期を探ってみました。

 

次回は、京都の一大勢力の出雲族

 

どこから来たのか?

 

そして、

 

どのように発展していったのか?

 

を追ってみたい。

 

※参考文献

・「京都市の地名」(平凡社

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

日本歴史地名大系 第27巻 京都市の地名

 

 

・森浩一「京都の歴史を足元から探る(洛北・山科)」(学生社)

 

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻

京都の歴史を足元からさぐる 全6巻